歴史の勉強

下野国  壬生城

    

模擬二の丸門

改修前の土塁と堀切

改修後の土塁

壬生城模型(資料館内)

壬生城がいつ誰によって築かれたかは諸説があるが、寛正3年(1462年)に京都の公家の流れを組む壬生胤業が屋敷を構え、文明元年(1469年)ころに壬生氏二代の綱重が城を築いたとされる。
この当時関東は古河公方を巡って管領山内上杉氏と扇谷上杉氏の争いが続いていて、壬生氏の下向は足利将軍の権威回復への布石であったらしい。
壬生氏は綱重の跡を綱房-綱雄と継ぐ。このころの下野は有力な戦国大名がおらず、小田原の後北条氏、常陸の佐竹氏、越後の上杉氏などの強大な勢力のはざまになっていて、下野を巡る情勢は複雑であった。
壬生綱雄は小田原の北条氏康の支援を得て北方の宇都宮城にいた芳賀高照を追ってを占拠し、真岡城を拠点にしていた宇都宮広綱・芳賀高定と対立した。

宇都宮広綱・芳賀高定は常陸の佐竹氏に支援を求め、ここに北条と佐竹の代理対決が壬生氏と宇都宮氏の間で争われた。
しかし壬生綱雄は対決を避けて鹿沼城に退去し、永禄5年(1562年)に鹿沼で暗殺された。義雄が跡を継ぎ北条方として秀吉の小田原攻めに参戦したが、天正18年(1590年)に小田原城内で病死し、嗣子がなく所領は没収された。
これによって壬生城は一時廃城となったが、慶長7年(1602年)に日根野吉明が1万石余りで入封して壬生藩が成立し、阿部氏(2万5千石)、三浦氏三代(2万5千石)、松平(大河内)氏(3万2千石)、加藤氏二代(2万5千石)と藩主が入れ替わり、正徳2年(1712年)に鳥居忠英が3万石で入封し、以後明治まで鳥居氏が八代に渡って継いだ。

関東の平野部に位置する平城で、かつては6つの曲輪が輪郭式に配置されて、各曲輪は土塁と堀によって囲まれていたらしい。
現在は二の丸の一部と本丸が公園化されていて、その南側入口に模擬建築の二の丸門がある。二の丸の南側部分を進むと本丸を囲む堀となり、その内側の本丸内には土塁が残されているが妙に整備されていて、案内板に載せられた改修前の方が断然雰囲気がある。
本丸部分は噴水を中心とした広場となり、図書館や歴史民俗資料館がある。資料館は無料で、中に壬生城絵図や模型が展示されている。
(平成20年11月訪問 #11)

参考文献:宇都宮城のあゆみ(宇都宮市教育委員会)、壬生町歴史民俗資料館資料、関連ホームページ

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