歴史の勉強

信濃国  松代城

    

太鼓門と橋

太鼓門櫓門

二の丸南土塁

埋門

戌亥櫓跡

未申櫓跡

北不明門

三の堀

武田信玄が永禄3年(1560年)頃に築いたとされる城で、築城時は海津城(貝津とも書く)といわれた。信玄は北信濃を巡って上杉謙信と争っていた。
その北信濃の拠点とするべく築かれたのが海津城であり、翌永禄4年には至近の八幡原において、川中島の戦いのうち最大の戦いになった第4次川中島合戦が行われた。
車ですぐの川中島古戦場には信玄と謙信の一騎打ち像もあるが、軍記で一騎打ちが行われたと書かれているのが第4次の戦いであり、海津城が信玄の本陣となった。

海津城は天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡まで武田軍の北信濃の最重要拠点となり、その後は織田氏の領地となり家臣の森長可に与えられた。しかし信長は同年6月に本能寺の変で斃れ、海津城は無住の城となる。
織田家の混乱を見て上杉勢が入り、しばらくは上杉家の支配地となって村上、上条、須田氏などが城代を務めた。上杉氏が会津に移封されると、田丸直昌が4万石で入った。
さらに慶長5年(1600年)、関ヶ原役の直前に森忠政13万7千石で入り、この時に待城(まつしろ)と改称した。森氏は慶長8年(1603年)に美作一国に移封され、跡には家康六男の松平忠輝が入った。

忠輝は12万石とも14万石ともいわれる領地を得、さらにその後は越後高田75万石の大大名となった。川中島一帯も引き続き忠輝の領地で、この城には家老の花井吉成が城代として入城した。
しかし忠輝は家康に忌避され、元和2年(1616年)には改易され、代って松平忠昌が12万石で入封する。忠昌は家康二男で越前松平家の祖となった秀康の二男で、この忠昌時代に城は松城と名が変わる。
忠昌は元和5年(1619年)に越後高田25万石に移封され、代って酒井忠勝が10万石で入るも元和8年(1622年)に出羽庄内に移り、真田信之が上田から13万石で入った。以後明治まで真田氏が継承し、三代幸道の正徳元年(1711年)に幕命により松代と改められた。

城は廃止された長野電鉄松代駅のすぐ北側に広がる。古くは城の北側を千曲川が流れて、南東方向に城下町が広がっていたが、千曲川は流路を変更され、城の北側には農地や住宅が広がる。
城址は公園として整備され、復元された太鼓門と前橋、堀が迎えてくれるが、その手前には三日月堀跡と二の丸跡が広がっている。三日月堀は武田氏特有の丸馬出とセットで城の正面を守っていた。
現在残る跡はその西側の端部のみで、比較的大きな三日月堀であったようで、その南側には三の丸が広がっていた。二の丸への虎口が南門で、その左手には土塁が復元されている。復元された堀に沿って二の丸西側に回ると、復元された埋門と土塁が見える。

太鼓門は本丸への虎口で、手前の高麗門と奥の櫓門で枡形を形成している。櫓門は城内最大の規模で御本丸大御門とも呼ばれていたようだ。本丸域は意外と狭く100m×90mのほぼ正方形であった。
北西に戌亥櫓、南西に未申櫓、南東に辰巳櫓と三基の櫓があがっていた。東側に東不明門、北側には北不明門があり、北不明門は搦手口に相当し、櫓門と高麗門で外枡形を形成した。
北不明門も復元整備されているほか東不明門も櫓門であった。戌亥櫓の石垣は城内で最も高く、戌亥櫓が天守代用だったことを思わせる。石垣は石を加工せずに積む野面積みという最も古い形式の積み方であることから、武田氏時代のものとも考えられるようだ。
江戸期も北信濃の拠点として重要視された松代だが、三日月堀、丸馬出、野面積みなど古い形式の城の特色が残り、近世城郭のなかに中世城郭の面影を色濃く残す城であった。


新御殿

鐘楼

松代の町は上司のほかにも見所が多く、城址から少し歩くと大手口付近に石垣と三の堀跡が残り、その先には新御殿が残る。新御殿は城内にあった御殿に対しての呼び名で、幕末の元治元年(1864年)に建てられた。
参勤交代の制度が大幅に緩和され、江戸に人質としてとどまる必要がなくなった母貞松院のために九代藩主幸教が新たに建てたものである。慶応2年(1866年)に幸教が隠居すると自身も新御殿に住んだ。
また藩校である文武学校や、真田氏の事績を展示した真田宝物館、鐘楼や武家屋敷門など多くの史跡が残る。
(平成26年5月訪問 #119)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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