歴史の勉強

信濃国  松本城

    

大天守をはじめ国宝天守群

本丸御殿跡より天守群を望む

天守より本丸御殿跡を望む

名城松本城を訪ねたのは、平成21年3月上旬のこと。この日は朝から大雨で、友人と扉温泉に向う途中に立ち寄った。松本市内も大雨で、城についたころには靴の中まで雨でグッショリ、靴下が濡れて気持悪いほど。気温も低く、天守閣の見学後早々に引き上げ温泉に向った。
翌日は晴れ。列車に乗るまでの間を利用してもう1回訪れるが、時間も限られていて天守には行けず。ということで、駆け足見学になってしまった。

先ずは国宝の天守閣群から。姫路城とともに桃山文化を代表するとされる天守閣群は、姫路の白に対して黒の城であり、それ故に烏城とも呼ばれる。
大天守は五層六階で本丸の南西の隅に位置し、犬山城、丸岡城に次いで古い現存天守である。その北側に乾小天守があり、こちらは三層四階で大天守とは渡櫓で結ばれている。
一方、大天守東側には二層二階の辰巳小天守が結ばれ、さらに月見櫓が続く。大天守を中心にしてL字型に櫓が連なるこの配置を複合連結式天守群と言い、この呼称は松本城の天守群だけのために付けられた。

そもそも松本の地に城が築かれたのは、信濃守護小笠原氏が主城を林城に移した際に、坂西氏に城を築かせたのが始まりという。林城の位置は松本市入山辺というから、松本城の南東方向であり、そのころの松本城付近は深志と言われた。
天文19年(1550年)、信濃に進出した武田信玄は林城、深志城を攻略して深志城を大改築して信州の拠点として整備し、重臣の馬場信房に守備させた。
天正10年(1582年)、武田氏が織田氏により滅ぼされると、旧主小笠原貞慶が深志城に復帰し、このときに松本城と改称された。
小笠原氏は徳川家康の家臣となっており、天正18年(1590年)に家康が関東に移封されると松本城を去った。代って松本城主となったのは石川数正であった。
石川数正はもともと家康の重臣であったが、天正13年(1585年)11月に家康のもとを出奔し、秀吉に走った。その理由は明らかでないが、家康にとっては衝撃的で、徳川の軍制は大幅な改編を余儀なくされた。

石川氏は数正-康長と二代にわたり在封したが、その間に本丸を石垣造とし、天守を創建した。石川氏の創建した天守は乾小天守であったと言われ、大天守の方は石川氏の跡の小笠原氏による造営とされる。
ともあれ現在の松本城の基礎ができたのが石川氏時代であったことは間違いない。関ヶ原役で石川氏は家康の与し、役後も引き続き松本城主であったが、慶長18年(1613年)に至り改易される。
表向きは江戸時代初期の大スキャンダル事件である大久保長安事件に連座してのこととされたが、家康のもとを出奔した代償であったろう。
石川氏の跡は小笠原氏、松平(戸田)氏と続き、その跡に家康の孫である松平(越前)直政が城主となった。この直政の時代に辰巳小天守と月見櫓が増築されて現在の形になったのである。

上の左の写真が南西から見た天守群である。中央の大天守が聳えるが、四層目と五層目の大きさが同じという特異な形である。
これは五層目にあった高欄の周囲を板で囲って内部に取り込んだためで、松本の冬の寒さに耐えかねてのものらしい。
大天守の左奥にあるのが乾小天守で、大天守ともども狭間や石落しが見られる。大天守の右に連なるのが辰巳櫓、朱塗りの欄干があるのが月見櫓である。
月見櫓はその名の通り月見の宴などに使われた開放的な遊び空間であり、平和時代を象徴する櫓である。
中央の写真は本丸御殿跡より見た雨に煙る天守群である。大天守と乾小天守が渡櫓で連結されているのがよくわかる。また右の写真は天守内より見た本丸御殿跡。
本丸は天守群を含んで東西130m、南北95m、周囲を堀で囲まれていた。本丸には壮麗な御殿があったが、享保12年(1727年)の焼失したのちは再建されず、二の丸御殿が居館となった。


本丸黒門二の門

本丸黒門一の門

二の丸太鼓門二の門

二の丸太鼓門一の門・玄蕃石

二の丸御殿跡

本丸虎口は南側に正門である黒門、北側に裏門となる搦手門、西北に埋門が、月見櫓下に水門があった。埋門は開かずの門で、現在は朱塗りの橋が架かっているが、もともとは足駄塀であった。
正門の黒門は攻撃的なつくりで、石の土橋で左右の堀の水位を調整している。二の門は平成元年に復元され、一の門は昭和35年に復興された。
一方、本丸の東から南、西をU字型に囲む形で二の丸があった。二の丸には東側に太鼓門、西北には若宮口があった。正門となるのが太鼓門で、平成11年に発掘調査結果と古絵図によって復元されている。
太鼓門の一の門の左側にある巨石は玄蕃石と呼ばれる。石川玄蕃頭康長が。嫌がる人夫を斬って運搬を督励したことにちなむ。
この太鼓門を入った右側が二の丸御殿跡で、ここが享保12年以降明治に至るまで松本藩主の居館となった。

さて、辰巳小天守、月見櫓を増築した松平直政は、寛永15年(1638年)に出雲松江に転封となり、堀田正盛が4年間在封したあと、水野氏の時代になる。
水野氏の治世は6代80年余り続くが、この間に重税に端を発する加助騒動が起きた。一揆事件であるが、死罪となった加助の恨みはものすごく、明治期になって荒廃した松本城の天守が傾いたのも加助の怨念によるという伝説が、まことしやかに伝えられるほどだった。
水野氏は六代目の忠恒が江戸城中で長府藩世子毛利師就に刃傷に及んで改易処分となり、松平(戸田)氏が復帰して明治に至った。

廃藩置県後、松本城は競売にかけられて売却され取り壊しが始まった。地元の市川量造は文化遺産を残そうと取り壊しの延期を求め、明治6年(1873年)から9年にかけて本丸で5回に及ぶ博覧会を開催して、その収益金によって天守などを買い戻し、その結果取り壊しを免れた。
その後、本丸広場は果樹園に、二の丸は旧制松本中学となった。松本中学の校長小林有也は、本丸広場を中学校のグラウンドとし、明治34年(1901年)に天守保存会を設立した。
有也は荒廃していた天守を修築するための資金を集め、それによて大正2年(1913年)に修理を終える。市川量造、小林有也によって守られた天守は、今も美しい姿を松本平に輝かしている。
(平成21年3月訪問 #51)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、名城を歩く・松本城(PHP研究所)、城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、城郭探検倶楽部(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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