歴史の勉強

出雲国  松江城

現存天守


山陰唯一の現存天守を持つ松江城が築かれたのは関ヶ原役後のことで、功によって出雲、隠岐両国の太守となった堀尾吉晴が宍道湖畔の亀田山に新城地を選んだことによる。
堀尾吉晴は木下藤吉郎の時代から秀吉に仕え、天正元年(1573年)に近江長浜のうちで100石を与えられたのを皮切りに、山崎合戦後には6284石、天正11年(1583年)には若狭高浜で1万7千石(1万石とも)、天正13年(1585年)には近江佐和山で4万石と出世した典型的な出来星大名である。
佐和山城主となると同時に秀次付宿老となり、天正18年(1590年)の小田原役後に行われた家康の関東移封により、それまで家康が居城としていた遠江浜松に12万石で入った。
秀吉は家康を関東に駆逐し、その旧領には豊臣系の諸大名をズラリと配置したが、吉晴もそのひとりで、秀吉の信任の篤い大名でもあった。

秀吉晩年には中村一氏、生駒親正とともに三中老のひとりに選ばれたが、秀吉の死去後は家康に接近した。慶長4年(1599年)には家督を二男忠氏に譲り隠居し、隠居領として越前府中5万石を与えられたとされる。
一方で、これは隠居領ではなく、留守居役であったともされる。隠居領にしろ留守居役にしろ家康から与えられたもので、秀吉子飼いの吉晴も家康派になっていた。
関ヶ原役では本戦直前に三河池鯉鮒(知立)において宴会の際に、水野忠重殺害事件に巻き込まれて負傷してしまう。加賀井重望が縁戚で忠重を殺害したが、居合わせた吉晴が重望を討った。
ところが、そこに駆けつけた忠重の家臣が、殺害犯人を吉晴と勘違いして傷を負わせたのだ。これにより吉晴は不戦のやむなきに至り、代って子の忠氏が活躍し、戦後吉晴、忠氏親子には論功行賞として出雲、隠岐両国24万石が与えられた。

出雲、隠岐両国も忠晴に与えられたのか、忠氏に与えられたのか、あるいは親子に与えられたのか、いまひとつはっきりしないのであるが、ともかく堀尾父子は出雲に入った。
当時の出雲は尼子氏の本拠であった月山富田城が、いまだに中心であった。しかし国内の東の端に位置し、さらに戦国期からの山城のために城下町が狭いことなど、近世城郭としては難点があった。
そこで吉晴父子は慶長8年(1603年)に幕府の許可を得て、新城地の選定にかかった。このとき忠氏が注目したのが亀田山で、一方の吉晴は荒和井山(亀田山の南西の宍道湖畔)に着目した。
確かに荒和井山も要害ではあったが、忠氏は規模が大きくなりすぎることに不安を抱き、吉晴の方は亀田山では規模が小さすぎると不満だったという。

父子のあいだで意見が対立したが、事態は思わぬ展開をみせた。慶長9年(1604年)に忠氏が急逝したのだ。わずかに28歳であったという。
忠氏の嗣子忠晴はわずか6歳、急遽吉晴の出番となり、忠晴の後見として執務をとった。忠晴は大きなショックを受けたとされ、せめて忠氏の遺志を継いで亀田山に新城地を決定、築城にかかった。
この亀田山の城が松江城で、慶長12年(1607年)に資材運搬用道路や橋の建設整備から始められた。翌慶長13年からは本丸、天守閣の石垣、内堀の工事にかかり、慶長15年(1610年)末には天守閣の完成を見た。
その間、城下町の建設も進められ、やがて松江と命名された。慶長16年(1611年)に忠晴が元服、それを見届けるように吉晴が没した。

しかし忠晴も寛永10年(1633年)に35歳の若さで死去、嗣子が無く堀尾家は断絶となった、その後に入った京極忠高もわずか4年で死去、こちらも無嗣で断絶となった。
その跡に家康の孫である松平直政が18万石入り、以後幕末まで定着した。直政な家康の二男結城秀康の三男であったが、すでに松江入部時には財政難に陥っていた。
その松平家を再建したのは六代後の治郷で、号である不昩の名の方が有名である。茶道不昩流は大名茶と町人茶を融合させたものという。
そして幕末、最後の藩主松平定安は廃藩置県で松江を去り、城は島根県庁となったが、4年後に民間に払い下げが行われた。天守はわずか180円であったというが、豪農勝部本右衛門による働きかけで入札は中止、有志達の資金で城は保存維持され、いまに千鳥城ともいわれる優美な姿を残す。


太鼓櫓(上)と井戸跡(下)

大手門跡

二の丸・南櫓

二の丸・中櫓

松江城訪問は平成22年8月、おりからの猛暑で気温は37度を突破、猛烈に暑い日であった。大手門前の駐車場に車を停めて堀越しに南櫓や中櫓を見て、馬溜と呼ばれる大手門前へ。
大手門を入って正面が二の丸下の段で、米蔵曲輪とも呼ばれ、米蔵や武具櫓があったところ。左に折れて太鼓櫓の下を通り三の門を入ると二の丸上の段。
二の丸上の段には南櫓、中櫓、太鼓櫓が平成13年に復元されている。さらに広場になっているところには表御殿があったという。また土塀と南虎口の冠木門も復元されている。

  

二の門付近からの天守

二の門跡

一の門・南多門櫓

天守地階の井戸

二の丸から二の門跡を抜けて一の門に向う。上の左の写真は二の門付近から天守を見たもので、本丸内の櫓が横矢を掛けられるように屏風折れに配置されているのがよくわかる。
一の門は本丸への入口で、ここで入場券を買う。ということは、ここまでは無料で二の丸の復興櫓もタダ、良心的である。一の門は南多門櫓とともに復興されている。また石垣の巨石にも目がいく。
本丸内には中央東よりに天守があり、その周囲に弓櫓、坤櫓、鉄砲櫓、乾之隅櫓、祈祷櫓、武具櫓の二重櫓6棟があり、それぞれが多門櫓で結ばれていた。例外的に鬼門にあたる天守の東北側のみ多門櫓ではなく塀であったいう。
現在では天守以外の建物はないが、この天守が全国に12しかない現存天守のひとつである。松江城天守は望楼型で、慶長15年(1610年)に造られた。
五層六階で南側正面中央部にある付櫓が入口となる、というより付櫓からしか入れない。付櫓から天守地階に入り、さらに二度クランク状に曲がってやっと天守内部に入る。
天守地階には籠城戦に備えた井戸があり、石落しや挟間などが見られ便所まであったという、実戦的な造りになっていて、ほかにも繋ぎ合わせて鉄輪で補強した寄木柱なども特徴的だ。


北の門跡

水の手門跡

馬洗池

北惣門橋と脇虎口

塩見縄手の武家屋敷

天守の北西から北の門、さらに腰曲輪を経て水の手門口の先には馬を洗ったことから名付けられた馬洗池、さらに築城工事の際に人間の頭蓋骨と槍が見つかり、祈祷をして例を鎮めたのちに井戸を掘ったところ頭のつむじ(ギリギリ)の形になったことが由来のギリギリ井戸の跡がある。
この付近は高石垣もよく残り、大手門方面に比べて格段に静寂感がある反面、樹間を通して見上げる天守の姿もいかめしく見える。
ここから北西側には北の丸が広がりその先が搦手口となり、北の丸の南側にあたる椿谷には土塁も残る。一方馬洗池から東に向うと北惣門橋である。
橋を渡り左に折れ、さらにその先の宇賀橋を渡ったところが塩見縄手である。中級武士の屋敷が並んでいたところで、武家屋敷が残るほか、その先には小泉八雲記念館、田部美術館が建つ。
また、大手門駐車場から堀を隔てて、城の南側に建つ島根県庁は松江城三の丸に建っている。三の丸は松平氏三代の綱近により造営されたといわれ、二の丸御殿に変わって政庁の役割を果たした。昔も今もこの地方の政治の中心地である。
(平成22年8月訪問 #53)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、城郭探検倶楽部(新人物往来社)、名城を歩く・松江城(PHP研究所)、よみがえる日本の城(学研)、堀尾吉晴・松江城への道(松江市教育委員会)、松江城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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