歴史の勉強

越前国  丸岡城

    

天守

天守内部の階段

天守最上階

在りし日の丸岡城

越前丸岡の城は現在も本丸内の独立した天守が残る。この天守は二層三階の望楼型で、その建立は天正4年(1576年)とも慶長18年(1613年)頃ともといわれる。屋根が全て石瓦で葺かれているのが特徴で、昭和9年(1934年)国宝に指定されたが、昭和23年(1938年)の福井地震で倒壊した。その後昭和25年重要文化財となり、昭和30年に修復再建されている。
この丸岡城は、平野部である丸岡町(現坂井市丸岡町)の中心地域にあって、その天守がどこからでも見えるといっても言い。現代でもそうなのだから、軒の低かった昔なら相当に目立ったことだろう。
城の駐車場に車を置いて、さして高くもない城山に登ると、いきなり天守が現れる。独立していて余計な装飾はなく、それがまたすばらしい。

一層目には望楼型天守の特色のひとつである大きな入母屋破風がある。1階は塗りごめで下部を下見板張りで、3階の廻縁は格式を高めるための見せ掛けのもので、外へは出られない。
入口も天守の規模に比例して小さく、正面にいきなり狭い階段がある。もともと天守の階段は内部を有効利用するために急で狭く、上り下りしやすくするために今はロープがつけられている。昔は当然ロープなどなく、この狭く急な階段を上り下りしたのだから大変だったろう。
天守内部は余計なものはまったくない。消火器と小さな電灯と1階に飾られた各地の城の写真と注意書きくらいで、これがまた実にいい。

3階に上ると丸岡市街をはじめ、その周囲が見渡せ廻縁が見せ掛けというのがよくわかる。3階には窓があるが、そこの突き上げ戸は近代の仮設だそうだ。
丸岡の地に城が築かれたのは、織田信長が朝倉義景を滅ぼして越前を領土とした後のこと。越前には柴田勝家が入り、北の庄(福井)を居所としたが、甥の勝豊が丸岡に城を築いたという。これが天正4年(1576年)であった。
天正10年(1582年)の本能寺の変後の清洲会議において、柴田勝豊は長浜城に移り、丸岡には安井家清が入る。翌天正11年の賤ヶ岳の合戦で勝家や秀吉に敗れると青山氏が丸岡城主となった。
青山氏は関ヶ原役で西軍に与したために、戦後所領は没収され、越前一国は徳川家康の二男松平(結城)秀康が領する。丸岡には秀康の家老今村盛次が2万5千石で入ったが、越前騒動(久世騒動)で改易された。

今村盛次の跡には松平越前家の附家老として本多成重が入る。成重は家康の功臣であった本多作左衛門重次の嫡男であった。
「一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせ」という簡潔に要点を述べた、手紙文の模範とされる文章があるが、これは重次が戦場から国許の妻女に送ったもので、この中に書かれたおせん(仙千代)が成重である。この書簡碑が天守石垣の東北に建てられている。
成重はその後、越前家二代目の忠直が改易されたときに独立した大名となり、寛永元年(1624年)に丸岡藩が成立した。本多氏は四代続くが、四代目の重益の時に越丸騒動が起きて改易。越後糸魚川から有馬清純が5万石で入封し、幕末まで八代に渡って支配した。
明治に入ると丸岡城は天守を残して売却されて、堀も埋め立てられたために、天守のみ小高い岡にポツンと建っているが、よくぞ天守だけでも残ったと思う。日本最古の天守というが、そのすばらしさは一見の価値がある。
なお、入場券は城山麓の歴史民俗資料館とセットであるが、資料館の方はたいしたものはない。
(平成19年9月訪問 #1)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、丸岡城パンフレット、関連ホームページ

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