歴史の勉強

讃岐国  丸亀城

大手門前より

         
丸亀城は、標高66mの独立丘亀山に築かれた平山城で、室町時代初期に細川頼之の重臣奈良元安が聖通寺山城の出城として築城したのが始まりというが、確証はない。
はっきりするのは、天正15年(1587年)に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正が、その隠居城として慶長2年(1597年)に本格的に城郭を築いて以降である。
親正は秀吉の腹心のひとりとして数々の軍功を挙げ、関ヶ原役では西軍に与したものの、子の一正が東軍に属したために、生駒氏は所領安堵された。しかし親正は高野山で蟄居となり、丸亀城は無住となった。

丸亀城は讃岐西部の守りの城という役割も持たされていたが、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となった。生駒氏は一正の跡を正俊、高俊と継いだが、寛永17年(1640年)に江戸と国許の重臣の対立に端を発した御家騒動により改易された。
丸亀の地は伊予大洲藩預り地となったが、寛永18年(1641年)9月に肥後天草から山崎家治が5万石で入った。島原の乱後の復興に対する行賞であった。廃されていた城は修復され、今に残る見事な石垣も、この時代に築かれたという。
山崎氏は二代俊家も引き続き城郭整備にあたったが、三代治頼がわずか8歳で病没し、無嗣断絶となった。山崎氏の跡に播磨龍野から京極高和が6万石で入封し、以後封を継いで明治に至る。今の丸亀城は山崎氏~京極氏時代のもので、生駒氏時代の城は本丸の位置も違っていたようだ。


左:大手一の門である櫓門、中:山下御殿表門、右:三の丸高石垣

丸亀城の天守は小ぶりなのだが、大手枡形から見上げると三重三段の見事な高石垣とともに威容を誇り、見ごたえがある。
大手門は高麗門である二の門を潜ると、右手に櫓門である一の門がある典型的な近世城郭の形式である。大手門は山崎氏時代までは南側にあったが、寛文10年(1670年)に北側の現在地に移された。
櫓門を抜けた先を右手に進むと山下御殿への表門と、番所や長屋が残る。ここは山下曲輪と呼ばれ、京極氏二代の高豊によって御殿が設けられた。
天守へは大手枡形から左手へ向かい、見事な石垣を見ながら見返り坂を上がる。上がりきると三の丸で、典型的な輪郭式の丸亀城は、この三の丸が二の丸と本丸を囲んでいる。


左:栃の木門跡、中:生駒氏時代の野面積石垣、右:三の丸井戸と本丸石垣

三の丸の南側に栃の木門跡があるが、この栃の木門が山崎氏時代までの大手門で、そこを過ぎて下ると生駒氏時代の野面積の石垣が残り、搦め手口がひっそりと佇む。
三の丸にはこのほかに井戸跡や京極家江戸屋敷の建物を移築したといわれる延寿閣別館などがあるが、なんといっても本丸や二の丸の見事な石垣は一見の価値がある。
三の丸を一周し、クランク状になった虎口を経て、二の丸に入ることになる。この虎口と本丸への虎口は、非常時には土砂を入れて扉を閉じた埋門となった。またこの虎口には雁木を巡らせてある。


左:二の丸井戸、中:本丸虎口、右:天守

二の丸にも井戸がある、その深さは65.4mもあって、日本一の深さを誇る。三の丸の井戸がその次に深く、2つの井戸はいずれも籠城に備えたものであることは言うまでもない。
二の丸の西側が一段高くなった本丸で、本丸には三重三階の現存天守がある。現存十二天守のひとつである。天守は東西側に千鳥破風、南北側に唐破風を配し、妻側を南北側にとっている。
ところが妻側四間(約7.3m)、東西側の平側が三間(約5.5m)と妻側の方が平側より大きいという変則的な造りになっている。これは北の大手方向から見たときに、天守を大きく見せるためといわれ、大手門付近から見上げた天守が壮大なのもこの効果である。
天守は一階の妻側と東側が下見板張りのほかは漆喰白壁で、入り口は西側になる。本丸で見ると実に小ぶりな天守だが、城下から見上げた時は石垣とともに壮大華麗で、近世城郭の目的であるステータスが見事に演出されている。(平成27年8月訪問 #126)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、よみがえる日本の城(学研)、名城を歩く・高松城丸亀城(PHP研究所)、歴史読本・歴史と旅各誌、丸亀城パンフレット、関連ホームページ

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