歴史の勉強

上野国  前橋城

    

本丸跡土塁

県庁内土塁

車橋門跡

高崎からJR両毛線に乗ると3つ目の新前橋で上越線と分れ、列車は高架橋に上がる。やがて利根川を渡ると前橋駅だが、利根川の鉄橋の上から左手を見ると、河沿いに一際高い建物がある。それが群馬県庁で、前橋城の本丸のあったところである。
前橋駅からランドマークの県庁を目指して15分ほど歩いてもいいし、前橋公園方面のバスも頻繁に出ているので、バスで県庁前に出てもいい。
県庁の前には道路に沿って見事な土塁が残る。北東の土塁上には「前橋城址之碑」が建つ。そこから左に曲ると、さらに迫力ある土塁が続く。関東の城の特色である「掻き揚げ」手法で築かれたものである。この土塁の見事さが前橋城の最大の遺構である。
県庁の北側の前橋公園は三の丸跡であり、車橋門跡には紙一枚入らないほどぴったりと積まれた石垣が現存(西側の台石は昭和39年の区画整理により、東側に8mほど移設された)する。

前橋はもともと厩橋と呼ばれ、その地名は東山道の駅家(うまや)に由来するという。前橋と改めたのは元禄年間(1688~1703年)の酒井氏の時代のことであるというが、それ以前にも前橋と表記された文書が残る。
また厩橋も「うまやばし」ではなく「まやばし」と言っていたらしく、口語では早くから使われていたと思われる。
その前橋の地には延徳年間(1489~91年)には城が築かれたといわれており、戦国前期には山内上杉氏の支配下に入った。
やがて小田原の後北条氏が北関東にも勢力を広げ、山内上杉氏は後北条氏に追われて越後に亡命し、長尾景虎(上杉謙信)に関東管領と上杉の家督を譲る。

上州は後北条、上杉(越後)、武田の強豪各氏が争う地となったが、織田信長が甲斐の武田氏を滅ぼすと、織田の勢力は甲斐や信濃からが関東に及んできた。その侵攻口が上州で、滝川一益が織田軍の関東方面司令官であった。
だが侵攻が本格化する前に信長は本能寺に斃れ、関東からその勢力は一掃された。代って後北条氏の支配地となるが、後北条氏は秀吉により滅亡せられ、上州は徳川家康の支配地となった。
家康は関東に入ると前橋を三河譜代の平岩親吉に与えた。平岩氏は治世11年後の慶長6年(1601年)で甲斐に転封となり、代って武蔵川越から酒井重忠が入る。
酒井氏は寛延2年(1749年)に姫路に転封となるまで150年間、九代に渡り前橋を治めた。酒井氏からは下馬将軍といわれた大老酒井忠清が出ている。

酒井氏と入れ替わりに姫路から松平越前家の分家、松平朝矩が15万石で前橋藩主となった。しかし朝矩は19年後の明和4年(1867年)に武蔵川越に居城を移す。
理由は前橋城本丸が、城の西側を流れる利根川によって侵食破壊されて、城の機能が保てなくなったためである。
利根川による前橋城の侵食は、酒井氏時代から始まっていて、寛延元年(1748年)には既に本丸を放棄し本丸機能を三の丸に移転していた。
朝矩の川越移転によって前橋城は廃城、城付きの封地は陣屋支配を受けたが、城下は寂れていった。その後、松平氏は城の再築城を願い、慶応3年(1867年)に再築がなって帰城したがすぐに版籍奉還、そして廃藩置県を迎えた。
廃藩置県後はいくつかの変遷を経て群馬県が誕生する。群馬県庁は当初は高崎に置かれたが、高崎は陸軍の衛戍地でもあって手狭となり、養蚕で栄えた前橋が運動をして県庁を誘致した結果、県庁が城址に置かれた。
(平成21年1月訪問 #24)

参考文献:城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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