歴史の勉強

伊勢国  桑名城

    

広大な水堀

辰巳櫓跡

蟠龍櫓

三の丸堀跡

桑名駅からほぼ真東に歩き、揖斐川に臨むところにある九華公園が城址である。幅20mを超えるという広大な水堀が迎えてくれる。
桑名城の大きな特徴の一つは、この水堀といってもよく、九華公園の六割を堀が占めるという。この堀に囲まれて南北110m、東西58mの本丸があり、南に二の丸、北から西にかけて三の丸が配された。
現在公園になっているのは本丸と二の丸・三の丸の一部であるが、石垣はじめ遺構はことごとく棄却され、ほとんど残されていない。
城内にはかつて51基の櫓と46基の多門櫓、水門が3門、それに四重の天守があったというが、本丸内に天守台と辰巳櫓、神戸櫓の跡が小高い丘のように残るだけである。
天守は元和3年(1617年)に入封した松平(久松)定勝が築いたが、元禄14年(1701年)に火災で焼失してから再建されることはなく、三重の辰巳櫓が天守代用となった。

桑名城の歴史は本田忠勝の入城によって始まるといっていいが、もともとこの地に最初に館を築いたのは桑名行綱で、鎌倉時代のことであった。
その後しばらくは不明であるが、戦国時代にはこの付近の豪族伊藤氏が東城と称する城館を築き、これが桑名城の前身であった。
伊藤氏は織田信長に滅ぼされ、伊勢北部は信長の重臣滝川一益の支配地となった。その後、豊臣氏の時代になると神戸信孝、天野景俊、服部一正とめまぐるしく領主変わり、天正19年(1591年)に一柳直盛が入城した。
城の基礎を築いたのが直盛とされ、その後文禄4年(1595年)には氏家行広が城主となった。行広は関ヶ原役で西軍に属したために改易され、慶長6年(1601年)に徳川四天王のひとりである本多忠勝が10万石で入封した。

当時はまだ大坂に豊臣秀頼がおり、家康は大坂を囲むように信頼厚い将を置いたが、忠勝の桑名城主もその一環で、大坂や西国に対する抑えであった。
忠勝は入城後に城の大改修を実施し、多くの櫓を持つ大城郭を築いた。合わせて交通の要衝としての城下町の整備を急ぎ、七里の渡しの築港工事も行った。三の丸の跡には有名な筋鉢鹿角脇立の冑の本多忠勝の銅像がある。
元和3年に本多氏は姫路に移り、久松松平氏、奥平松平氏、久松松平氏と継承される。幕末期の藩主松平定敬は会津藩主松平容保の実弟であり、幕府方として戦った。
そのために桑名城は新政府軍による激しい砲撃にさらされ、結局は無血開城したが、城は新政府軍によって焼き払われて灰燼に帰した。
石垣も明治政府による四日市港築港の際に防波堤に使われ、桑名城は徹底的に破壊された。石垣は、三の丸の堀跡に比較的よく残されているくらいである。
また、揖斐川治水のための水門総合管理所が、かつての蟠龍櫓の位置にあるために、その外観を模した建物となっている。
(平成23年3月訪問 #86)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、よみがえる日本の城(学研)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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