歴史の勉強

近江国  朽木陣屋

    

陣屋跡

陣屋内の石垣の一部

秀勝寺庭園

宇多天皇の流れを組むとされる近江源氏佐々木氏は、頼朝に従って平家打倒に功を挙げ鎌倉幕府が開かれると7ヶ国の守護を得た。
しかし承久の乱が起きると佐々木一族は、後鳥羽上皇方に与して幕府に敵対した。乱は幕府方の勝利に終わり、この結果佐々木一族の守護職は義清の出雲と隠岐、信綱の近江の3ヶ国を残すのみとなった。信綱は乱が起こると幕府方に付いたために佐々木氏の本拠近江の守護を与えられたものであった。
信綱には重綱、高信、泰綱、氏信という4人の男子がいて、それぞれ大原氏、高島氏、六角氏、京極氏に分かれた。このうち惣領家は六角氏であったが、京極氏も法名の道誉の方が有名な京極高氏が足利尊氏に忠誠を尽くし、室町幕府では四職家の一になり、六角氏を凌ぐほどの有力大名となった。

一方、近江国高島郡高島庄に入った高島高信の二男頼綱は高島郡朽木庄の地頭職となり朽木氏を称し、義綱のときに朽木谷に入った。
その後、朽木氏は朽木谷を本拠として室町幕府の奉公衆を務め、戦国期の当主十五代元綱も足利義輝、義昭に仕えた。足利将軍も京で政変があると、避難地のひとつとして朽木谷を選ぶこともあり、十三代稙綱のときには将軍義晴を迎えて庇護した。朽木市街の南にある秀勝寺庭園はこの義晴のために建てた館の庭園と言われている。
元亀元年(1570年)に越前朝倉氏を攻めた織田信長が、義弟の浅井長政の裏切りにあって挟撃の危機にさらされたとき、信長は越前攻めを即刻中止し、馬首を返して京に逃げ帰った。
このとき信長は現在の敦賀付近にいたが、京への帰路は琵琶湖西岸を選ぶしかなく、その途中にあった朽木谷を通過した。朽木氏の当主は十五代元綱であったが、信長の朽木越えを助け、これが朽木氏を有名にした。ちなみにこの逃避行の殿軍を勤めたのが秀吉であり、秀吉の名声を高めた。

朽木元綱は信長、秀吉に仕えて2万石を得て、天正18年(1590年)には従五位下河内守に叙せられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原役では西軍に属していたが、東軍に内通して石田三成の居城佐和山城攻撃にも参加したが、減封は免れず9595石の旗本となった。
元綱が死去すると所領は分割され長子宣綱が6470石を相続して宗家となり、交代寄合(所領を持ち参勤交代をする旗本)として存続し朽木陣屋を居所とした。以後この地は一貫して朽木氏が治め、二十六代之綱のときに明治維新を迎えた。
陣屋は南側310m、北側200m、東側115m、西側125mというから台形に近い形をしており、周囲は土塁、堀、石垣で囲んでいたとされ、土塁と空堀の一部が辛うじて残る程度である。
また陣屋内にも石垣の一部と井戸が残るだけで、現在は無料の資料館と公園として整備されている。
(平成22年10月訪問 #66)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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