歴史の勉強

上総国  久留里城

    

写真1:男井戸・女井戸

写真2:復興天守

写真3:本来の天守台

雨城、霧降城とも言われる久留里城は、標高180mの小高い山上に位置する。この山は気候の関係か、いつも雨に降られているように深い霧がかかっていたために、この別名があるという。
戦国時代、房総半島南部に覇を唱えた里見義尭が天文6年(1537年)に、従来あった古城を改修して本格的な城郭にしたことが、この城の始まりといっていい。
それまでの古城は上総武田氏によって築かれた砦のようなもので、とても本格的な城郭ではなかったようだ。里見氏が改修した久留里城は、同氏の上総に於ける最前線の城であり、北条氏康をもってしても陥落させることができなかったほどの堅城であった。
現在も城内、駐車場から山上の模擬天守に至る一本道の遊歩道沿いには堀切も多く残り、当時の堅城ぶりをしのばせる。
また、この城の特徴は男井戸・女井戸(写真1)、お玉が池などの豊富な湧水であろう。天守近くにまで井戸や湧水があるということは籠城側に圧倒的に有利である。このあたりも難攻不落の城の理由のひとつであろう。

天正18年(1590年)に家康が江戸に移ってくると上総は家康の配下になり、大須賀忠政が入封し、ついで慶長7年(1602年)には土屋忠直に与えられた。
いずれも安房に封じ込められた里見氏への押さえとして役割が与えられたが、目の上のコブのような存在の里見氏は慶長19年(1614年)に実質的に改易されて安房を没収されると対里見前線基地としての存在意義はなくなった。
土屋氏の時代に城下の整備が進められたが、延宝7年(1679年)に土屋直樹が改易され久留里藩は廃藩となり、久留里の地は酒井忠清(前橋藩主)に与えられ、代官によって支配された。
酒井氏時代に久留里城は廃城になったが、寛保2年(1742年)に上野沼田から黒田直純が3万石で入封した。黒田氏は明治までこの地を支配し、城も再建された。

直純は幕府の許可を得て山上本丸に二重櫓、二の丸に多門櫓を造営、山麓西側の三の丸に御殿を営んだ。さらに外曲輪を設けて、その要所に櫓と城門が造られていた。
現在、山上には模擬天守(写真2)が建てられてうるが、その隣には土盛(写真3)がある。この土盛の下には二重櫓の土台が保存され、高さ1.5m、基部17m×14m、上部12m×10mで8個の礎石が設けられていた。
この櫓は天守代用であったことは間違いないだろうが、江戸中期、しかも江戸の近い上総の地の要害で、二重櫓の造営が許されたことは特筆に値する。
模擬天守内には何もないが、これは湿度が高く資料等が展示できないためで、二の丸跡に久留里城址資料館があり、発掘された資料等が展示されている。
(平成20年3月訪問 #50)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、城郭探検倶楽部(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ関連ホームページ

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