歴史の勉強

下野国  黒羽城

    

駐車場下の水堀

本丸と二の丸間の堀切

本丸土塁上の模擬櫓

重臣屋敷の薬医門

黒羽城を築城したのは大関高増とされる。大関氏は武蔵七党の一であった丹党の後裔で、武蔵国児玉郡大関村に住したことから大関氏を称したといわれるが、また桓武平氏大掾流の小栗氏の後裔との説もある。
大関氏は那須氏の有力な家臣となり、応永年間(1394~1427)に白旗城を築いて本拠としたが、戦国末期には那須地方北部で勢力を伸ばし、太田原氏とともに那須地方北部の有力豪族に成長した。
天正4年(1576年)に大関高増は黒羽に築城して本拠を移した。その後秀吉の小田原征伐の際に大関氏は逸早く秀吉のもとに参陣し、遅参した主家の那須氏が所領を没収されると独立した大名となった。
関ヶ原役では大関氏は東軍に属したが、黒羽城は上杉・佐竹に備える最前線となった。戦後大関氏はこの地で2万石を与えられた。関東の北辺に位置するとはいえ、大関氏は転封もなく明治までこの地を一貫して治めた。

城は那珂川の東側にある南北に長い山上にある。全体が公園化されており、土塁や空堀が遺構として残る。駐車場付近にも土塁や水堀がよく残っている。
この駐車場の向いが本丸域で、二の丸との間にある堀切は最大の見所である。堀には橋も架っているが、橋から見下ろす空堀は圧巻である。
本丸の周囲は高さ3mほどの土塁が囲み、西側には模擬櫓が建っている。櫓からは那珂川の流れが見下ろせ、遠く日光や那須の連山も望める。
本丸の周囲には大堀切のほかにも空堀が残り、堀の法面にはアジサイが植えられている。その総数は5500株とも言われ、梅雨時には一斉に開花する。

城跡の近くの山下地区はかつての重臣屋敷があったところで、重臣大沼家の門であったという薬医門が残っている。また大雄寺は大関氏の菩提寺で、本来は那珂川西岸にあったが、大関高増によって現在地に移転を命じられた。
その移転は大雄寺に表門を守る役割を与え城郭寺院とするためであったという。この寺は珍しくかやぶきの屋根を持ち、本堂や門、鐘楼堂なども室町様式を残す。
また大雄寺には初代黒羽城主高増以降の歴代大関氏当主の墓が並ぶほか、三の丸跡には松尾芭蕉ゆかりの品や黒羽藩資料などを展示する芭蕉の館がある。
松尾芭蕉は奥の細道の道中の途中で黒羽にも逗留し、「田や麦や中にも夏のほととぎす」の句を残している。
(平成21年10月訪問 #73)

参考文献:城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

城郭訪問録の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -