歴史の勉強

遠江国  久野城

    

大手門跡

本丸跡

久野城は東名高速袋井ICの少し東京より北側に位置する、台地の先端が小高くなった地形を利用して築かれた城だ。城のすぐそばを高速で走る車がよく見える。久野宗隆が永禄年間に築いたとされるが、明応年間に築城されたともいわれ、詳細は不明である。
久野氏はもともと今川氏に属していたが、今川氏滅亡後は家康に与し、久野宗能が高天神城攻めや小牧・長久手の戦いで戦功を挙げた。天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い久野宗能も久野城を去り、下総佐倉で1万3千石を与えられた。

代って久野城には秀吉の将松下之綱が入り、1万6千石を得た。之綱の跡は子の重綱が継ぎ、関ヶ原役でも東軍に与して本領安堵されたが、慶長8年(1603年)幕府の許可を得ずに居城の石垣を修築したことをとがめられ常陸小張に転封された。しかしこれは減封されていないことから、東海道筋に豊臣恩顧の大名が居ることを嫌った側面が強いと考えられる。
松下氏の跡には久野宗能が復帰したが、次代の宗成のときに紀州家家老となり、伊勢田丸城主となった。代って北条氏重が1万石で城主となるが、寛永17年(1640年)に下総関宿に転封となり、城は廃された。

さてメジャーではない城の場合、行き易い城と行きにくい城があるが、この城は行きやすいようで行きにくい。国道1号線方面から県道56号を北上し、東名高速手前を右に入り、さらに3本目の道を右に入って道なりに工場に沿って進んでいくと、久野城址と書かれた小さな案内板が出てくる。これにしたがって細い道を左に入って少し行くと右側に小さな駐車場がある。
駐車場わきから入ると北の丸跡、堀切を通って二の丸跡、さらに本丸跡へと続く。二の丸の本丸下には厳重な柵で塞がれているが、井戸がある。北の丸跡の先で東の丸~大手への道が分岐し、土塁もあるが、草が茂っていて、よくわからない状態だった。

大手へは城山を巻くように歩いて行くと達するし、草が生い茂っていたので、実際にこの方法で行った。大手から右に取れば東の丸~北の丸あるいは本丸へ、左に進むと南の丸~高見~二の丸~本丸となるが、こちらも南の丸から先は草ぼうぼう状態。
そのまま直進すると城の西側に出るが、ここは三の丸で、こちらからも二の丸へ上がれるが、やはり草が生い茂る。まっすぐ行くと城を一周して駐車場に戻ることになる。遺構としてはよく残っており、草が刈られていれば見ごたえがある城だけに、城址への案内も含めて残念だった。
(平成26年9月訪問 #110)

参考文献:関連ホームページ

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