歴史の勉強

信濃国  小諸城

    

現存三の門

二の丸虎口

天守台

不明門跡

一般的には懐古園として知られる小諸城址には、比較的縁があって何度か訪れている。中学、高校と林間学校が長野であって、それぞれ見学で訪れているし、社会人となっても、懐古園脇のホテルに友人が勤めていたので何度か遊びに行っている。
しかし城址として見たことは一度もなかった。小諸城は千曲川を背にして建ち、浅間山に向かって上りになっている地形のために、城の北側に広がる城下町の方が高い位置にある。そのために穴城と呼ばれる珍しい城である。
天文11年(1543年)に武田信玄が築城したとされ、縄張りは信玄の軍師山本勘助というが、この地にはもともと城塞があったらしい。長享元年(1487年)に信濃守護小笠原氏の一族の大井光忠が築き、鍋蓋城と呼ばれたという。
おそらく大井氏が築いた砦程度の小城塞を、この地を攻略した信玄が拠点として拡張整備し、それが江戸期の小諸城の原形になったのであろう。

信玄の築城後40年ほどした天正10年(1582年)3月に武田氏は、織田信長により滅ぼされたが、その信長も同年6月には本能寺の変で明智光秀に討たれてしまう。
その後の混乱期に後北条氏の支配を経て、甲斐信濃に進出した徳川家康の領地となった。このとき家康は、武田の家臣を多く召し抱えたが、そのひとり依田信蕃が小諸城代として佐久郡を支配した。
家康は信蕃の武勇信義を認め、真田氏の拠る上田城への抑えとして起用したようだ。天正11年(1583年)に信蕃の跡を子の康国が家督を継ぐと松平姓を与えるほど厚遇した。

天正18年(1590年)に康国は武田氏旧臣に殺害され、跡を信蕃二男の康真が継いだが、家康の関東移封に伴って上野藤岡に移った。代って秀吉の寵臣仙石秀久が5万石で入城した。
秀久は関ヶ原役で東軍に与し、二代忠政のときに信濃上田に移封され、徳川忠長の領地となる。その後は久松松平氏、青山氏、酒井氏、西尾氏が相次いで入封しては転封され、天和2年(1682年)に大給松平乗政が2万石で入った。
大給松平氏は二代18年在封し、元禄15年(1702年)に美濃岩村に移封され、越後与板から牧野康重が1万5千石で入り、ようやく定着を見た。牧野氏は幕末まで十代160年余りにわたりこの地を領した。

城址はしなの鉄道小諸駅裏に広がっていて、線路や道路から見下ろす感じで懐古園と額が掲げられた三の門が建つ。現在の門は明和2年(1765年)に建てられたもので、額は徳川家達の筆だ。
この門の最大の特徴は寄棟造で真壁仕上げであることだ。寄棟造とは住宅の屋根のように四方向に傾斜する屋根で、真壁とは柱を露出するものだ。城郭の場合は屋根は二方向の切妻であり、壁は防火の観点から塗り壁にするのが一般的だから、非常に珍しい。
三の門を入ると入場券売り場があって、ここから先に進むには入場券を買わねばならぬ。ちなみに懐古園にはいろいろな施設があって、園内散策と動物園に入れる散策券は大人300円、それにプラス200円すれば懐古館、小諸義塾記念館、藤村記念館、小山敬三美術館にも入場できる。

この先で道は大きく二方向に分かれ、右手が本丸方向で城の遺構があり、左手が動物園に続く。その別れの辻に水櫓跡の石垣が残る。水の便が悪かった小諸城では、城外の中沢川から用水を引いて水を汲み上げていたが、それを行っていたのが水櫓であった。
さて城郭巡りに来たのであるから城の遺構に向かうと、二の門跡の石垣に囲まれた枡形に出る。枡形を抜けると右側に二の丸への虎口が、美しい石垣とともに残る。その北側には番所があり、右手には北の丸、左手には南の丸の両曲輪に挟まれた中仕切門跡を抜ける。
北の丸は隠居所、南の丸は武器庫として使われていた。そして黒門跡に出て、その先で空堀を橋で渡り本丸に入る。本丸は西側を千曲川が流れ、石塁に囲まれて隅櫓が建てられていた。

天守台は本丸から北西に張り出しており、仙石秀久が築いた三重の天守があがっていたが、寛永3年(1626年)に落雷によって焼失してしまい、以降は天守は建てられなかった。
本丸や天守台には見事な石垣が残るほか、本丸内には井戸や牧野康長時代に建てられた武器庫などが残り、西側には馬場跡がある。また本丸の北側は地獄谷(北谷)という自然の谷で、空堀の役割を担っていた。
本丸北西端には展望台があるが、ここが不明門跡でここから千曲川に面した断崖を垣間見ることができ、意外と厳しい地形であることが見て取れる。
    

大手門

足柄門

黒門

このほかに小諸城の遺構として大手門がある。三の門に戻り線路の下を地下道で潜るが、線路の走っているところが空堀で、その先には三の丸が広がっていた。したがって三の門は堀底にあった門であるが、これは入城者を確実にチェックするためであった。
三の丸の東側に大手門が建つ。慶長18年(1613年)に仙石秀久による建てられた門であるが、明治になって民間に払い下げられ、教室や料亭、質屋などに使われたために改築が著しい。
また大手門の先を東に歩いた先の荒町にある光岳寺には三の丸にあった足柄門が移築現存するほか、車で20分ほど走ったところにある正眼院には黒門が移築現存する。また北国街道が線路を潜る脇には本陣が残っている。
(平成26年5月訪問 #120)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、懐古園パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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