歴史の勉強

尾張国  小牧山城

    

山頂部の石垣

空堀

信長館跡

平野の中に独立している標高86mあまりの山が小牧山であり、古くは帆巻山、曳馬山、引馬山、駒来山などと呼ばれたという。標高はさして高くはないが、本当に平野の中にポツンと聳えているので周囲からよく見える。現代でもそうなのだから、障害物がない時代は、よく目立ったことだろう。
この小牧山に初めて城を築いたのは織田信長であった。永禄2年(1559年)に尾張を統一した信長は、翌永禄3年に桶狭間の戦いで今川義元を破って東からの脅威をなくし、名のみの尾張守護であった斯波氏を滅ぼして、いよいよ美濃支配を目指す行動に移る。
そのために永禄5年(1562年)に三河の徳川家康と同盟して東の備えを万全にし、それまでの本拠であった清須城から、より美濃に近い小牧山に本拠を移した。丹羽長秀を奉行に小牧山に築城、早くも永禄6年7月に家臣とともに小牧に入っている。同時に小牧山の南側に城下町を開き、清須から商人を移転させた。

信長は犬山城攻めを皮切りに美濃への出兵を繰り返し、永禄10年(1567年)には美濃の戦国大名斉藤氏を滅ぼし、小牧山城を廃して岐阜に移っているが、信長時代の小牧城は山全体を多数の曲輪で区画し、重臣の屋敷を配していた、近世城郭に近い城であった。守りは土塁と堀からなり、虎口は2か所が確認でき、城の南側1㎞ほどに城下を守るための惣堀があった。
信長が去った後、小牧山を守ったのは江崎氏であった。江崎氏は信長の父織田信秀に仕え、天文16年(1547年)に江崎義臣が小牧山守になり、きわめて小牧山との結びつきが強かった。

天正10年(1582年)6月の本能寺の変を経て、天下は秀吉へ大きく傾いていく。その流れの中で小牧・長久手の戦いが起きた。信長の遺児で二男の織田信雄が秀吉と対立し、家康と連合して秀吉と合戦に及んだのがこの戦いである。このとき小牧山が家康・信雄連合軍の本拠となった。
初戦でこの付近に布陣していた森長可の軍を破った家康は、目をつけていた小牧山に入り、ここを榊原康政に命じて大改修した。土塁を高め、堀を深くし、蟹清水、北外山、宇田津など砦を周囲に築き、城郭のような姿になった。秀吉軍も北方に多くの砦を築き対峙し、戦いは膠着状態になった。
やがて池田恒興の作戦が採用された。家康の三河における本拠岡崎を突く作戦であるが、これは家康に察知され散々な失敗に終わる。このとき秀吉軍の動きを密告したのは、織田恩顧の農民であり、道案内をしたのは江崎善左衛門であった。

小牧・長久手の戦いが終わると、小牧山は再び平和に返った。江戸期には尾張藩領となり、江崎家が管理し、普段は入山が禁止されていた。やがて明治になり明治政府の所有から江崎家へ払い下げられ、のちに県有地、さらに尾張徳川家の所有となり、昭和5年(1930年)に小牧町に寄付され、史跡として整備された。
現在、山頂部には小牧市歴史資料館が建てられており、ここに至るいくつかの道が整備されている。大手は旧小牧市役所の西側から登る道で、天正年間の名残を最もとどめているといわれる。真っ直ぐに上り、途中の桜の馬場付近には土塁がある。その先に井戸跡があるが、ほとんど見分けはつかない。

やがて右に曲がり、坂を上ると歴史館前に至るが、この歴史館の周囲には巨石が点在する。また多くの巨石で組まれた石垣の一部は、信長時代のものとされる。さらにここから搦め手に向って下ると、見事な空堀跡もある。搦め手は最も整備された虎口で、ここから旧小牧中学校にかけて土塁跡が残る。
遊歩道になっていて、途中の駐車場からの入口の北虎口では、土塁の断面が見れるように工夫されている。その先には帯曲輪が並び、信長館跡といわれる、ひときわ大きな曲輪がある。曲輪と曲輪の間は土塁と小さな堀によって区切られ、この付近では合瀬川が天然の堀を成している。また搦め手から西回りの遊歩道には空堀や土塁跡、屋敷跡が続くが、屋敷跡は調査の結果、信長築城以前にこの付近にあった寺院跡ではないかといわれている。
(平成26年7月訪問 #102)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、小牧叢書・小牧山城(小牧市教育委員会)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ関連ホームページ

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