歴史の勉強

土佐国  高知城

二の丸より見た天守

         
慶長5年(1600年)の関ヶ原役を境に、土佐国の支配者が変わった。それまでの土佐は、一時は四国の覇者となった長宗我部氏が治めていたが、関ヶ原役で(その意図はなかったようだが結果的に)西軍に与したために改易された。
変って遠江掛川から山内一豊が入部した。5万石から土佐一国24万石への大加増であった。これは戦場での働きというより、戦前の軍議で掛川の城を兵糧ともども家康に差出す発言をし、これが評価されたことによるという。
しかし長宗我部氏の遺臣はこの処置に納得せず、土佐の中心であった浦戸城を占拠して抵抗した。一豊はこれを排除して浦戸城に入り、その後も不満分子を弾圧したが、国内は不安定であった。このため一豊は新領主の威光を示す必要があり、そのために大高坂山に新城を築くこととした。

大高坂山に城が築かれたのはいつかはわかっていないが、南北朝の頃には大高坂松王丸が居城していた。南朝方であった松王丸は、延元3年(1338年)に後醍醐天皇の第7子満良親王を迎えたりしているが、やがて北朝方の細川禅田定らに滅ぼされ、城も廃城になったらしい。
その後、戦国期に長宗我部元親により再構築され、天正16年(1588年)には、岡豊城から大高坂山城に本拠が移された。しかし水に悩まされ、天正19年(1591年)には浦戸に新城が築かれ本拠が移されてしまい、大高坂山城は再び廃されてしまう。
したがって一豊が大高坂山に城を築いたのは再々構築ということになる。百々安行を総奉行に築城が開始され、慶長8年(1603年)に本丸と二の丸が完成すると一豊は浦戸より移り、地名を河中(こうち)と改めた。二代藩主忠義は、この地名を嫌い高智と改め、さらに高知と変わって今に至っている。
これは相変わらずの洪水被害を意識してのこととされる。忠義時代の慶長16年(1611年)に三の丸が完成し、その後山内氏の居城として明治に至る。現存の天守は延享4年(1747年)再建されたもので、現存十二天守のひとつである。


左:追手門、中:石樋、右:三の丸石垣

城の正面追手門は櫓門、石垣、塀が現存し、櫓は内側が石垣からせり出したいわゆる懸造りで、通過した敵を頭上から攻撃できるようになっている。ちなみに追手門と天守がひとつに収められるのは高知城だけである。
左手にある石段を上がり杉の段に向かうが、途中の石垣には石樋がある。排水のためのもので、石垣内の水を抜くことで孕みを防ぐ。杉の段からは三の丸の見事な石垣を眺めつつ、先に西側に向かう。


左:水の手門跡、中:鉄門跡、右:詰門

本丸下西側は獅子の段とよばれ、その西には御台所屋敷がひろがっており、その先が搦手門(西の口門)となる。西側から北側に廻ると綿倉門、さらに水の手門を経て二の丸に入る。
一方、杉の段からは鉄門を通り、その正面に詰門がある。この詰門の2階部分が廊下橋である。詰門を正面に右側の石段を上がると二の丸だが、二の丸の東側下には三の丸が広がる。


左:廊下橋・廊下門と天守、中:廊下橋西側、右:廊下橋内部

二の丸から本丸への間には空堀があり、その空堀にあるのが廊下橋と詰門を一体化した建物である。詰門は番所や塩蔵があり、廊下橋には控えの間が連なっている。廊下橋を渡ったところが廊下門と呼ばれる櫓で、詰門は直角の関係になる。


左:西多聞櫓と廊下門、右:本丸御殿と天守


左:天守忍び返し、右:黒鉄門

廊下門は東西の多聞櫓と接しており、狭い本丸広場を挟んで本丸御殿の玄関がある。高知城本丸御殿は、日本で唯一完全な形で現存するが、賓客用であり、城主の日常生活は二の丸御殿で、政治など表向きは三の丸御殿で行われていた。
本丸御殿は式台廻り(式台の間、溜の間、玄関)、正殿、納戸蔵の3棟からなり、広さは約110坪、現在の御殿は寛延2年(1749年)に建てられたものである。
天守は本丸御殿に接続し、三層六階の望楼型天守である。享保12年(1727年)に一豊時代の天守が火災で焼失し、延享4年(1747年)に慶長当時のまま再建されから、江戸初期の姿をそのまま受け継いでいることになる。
天守には石落しをはじめ、鉄串の忍び返しも現存しており貴重である。本丸搦め手には黒鉄門があり、黒鉄門から下ると獅子の段にでることになる。20万石の国持大名の城としては、比較的コンパクトであるが、貴重な遺構の多い城である。(平成27年8月訪問 #140)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、よみがえる日本の城(学研)、名城を歩く・高知城(PHP研究所)、城郭探検倶楽部(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、高知城パンフレット、関連ホームページ

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