歴史の勉強

和泉国  岸和田城

    

本丸を望む

二の丸・堀と武道場

復興櫓門

復興天守

まずは岸和田の地名の起こりから。楠木正成が建武元年(1334年)に新政によって和泉守護に任じられ、正成の甥であった和田新兵衛高家が代官として和泉に遣わされ、岸和田に城を築く。
この城は岸和田古城と呼ばれており、現在の城より500mくらい北の位置にあった。この和田氏が岸和田の名の起こりで、のちに和田氏の分家が海側に住み、宗家と区別するために岸の和田と呼ばれたことによる。
さて、岸和田古城は室町期には山名氏、大内氏、細川氏、三好氏など城主が入れ替わり、永禄から天正年間に松浦肥前守が現在地に築城したという。また和田氏一族の信濃氏が居城とし、そのころに現在の城域になったも言われる。

ただしいずれも伝承の域を出ず、天正11年(1583年)に秀吉側近の中村一氏が3万石で入城してから、その歴史がはっきりとしてくる。一氏の入城時、紀州の地は雑賀衆・根来衆が割拠し、秀吉は紀州攻めの攻略の前線地として岸和田を考えていたようだ。
秀吉による紀州平定後、天正13年(1585年)に一氏は近江水口に移され、代ってこれも秀吉側近の小出秀政が代官として入った。秀政は入城時は4千石だったが、文禄3年(1594年)に6千余石を加増されて大名となり、翌文禄4年にはさらに2万石を加増され都合3万石となった。
秀政は岸和田城の整備に精力を傾け、慶長3年(1598年)には天守を含めて大半が完成した。関ヶ原役では西軍に与したが、二男秀家が東軍に参じたために戦後は改易を免れて本領を安堵された。

慶長9年(1604年)に秀政が没すると、但馬出石城主であった秀政の長男吉政が岸和田城主となった。吉政は父親同様に岸和田城のと城下町の整備に努めたが、慶長18年(1613年)に死去し、長男の吉英がやはり出石から移って岸和田城主となる。
小出の宗家は岸和田であり、出石は別家のような扱いであったようだ。このとき出石領のうち2万石を引き続き領地としたために岸和田藩は5万石となった。
吉英も引続き岸和田城を整備し、後世の城郭の基礎を整備したとされる。大坂の陣では戦功を挙げたが、秀吉の縁につながるために家康からは疑われた。そのため岸和田城には家康の信任厚い松平信吉や北条氏重らが加勢の名目で入城した。

豊臣氏滅亡後の元和5年(1619年)に吉英は但馬出石に転封され、松平(松井)康重が5万石で入り、大規模な修築を実施した。このとき伏見城から櫓や門を移築したとされる。
松平(松井)康重は、自ら進んで高直しを行い6万石とし、その分増加した軍役を負担するために苛政を敷いた。康重は寛永17年(1640年)に死去し、子の康映が家督を継ぐが播磨山崎に転封となり、岡部宣勝が6万石で入った。
宣勝入封直後は松平時代の苛政から農民が強訴に及んだという。宣勝は農民を慰撫して年貢も引き下げ、一方城の整備を図り、石垣を築いて守りを強固にした。これ以後岡部氏は一度も転封になることなく、明治まで岸和田を支配した。

岸和田城は市役所や消防署、府立岸和田高校に囲まれ、城の別称である千亀利城の名を冠した公園となっている。千亀利は「ちぎり」と読み、機織りの際に縦糸を巻く器具のことで、縢と書く。本丸と二の丸の形が縢に似ていることからでた別称である。
猪伏(いぶせ)山という小高い丘の上に築かれており、二の丸と本丸、堀が残るほか市営駐車場には石垣の一部が現存する。二の丸西側の府道に面した堀は百閒堀といわれるが、堀には水草が繁茂していて、二の丸にある櫓風復興建物の武道場とともにいい雰囲気を出している。
江戸時代の二の丸には御殿と伏見櫓があったが、戦国期までは二の丸が本丸であった。現在は二の丸公園として整備され、前述の武道場がある。

本丸は周囲を堀に囲まれ、堀越しに見る復興天守はこれまた美しい。本丸の模擬天守、隅櫓、土塀等は市民や岡部氏などの希望で、昭和29年(1954年)に整備されたものである。
正保絵図には五重天守が描かれているが、文政10年(1827年)に落雷により焼失し、幕府に再建を願い許しを得たものの、結局は天守は建てられなかった。また小天守も付属していたとされる。
したがって今の三重天守は、外観も規模も往時のものとは異なっている。本丸に入るには二の丸との間に架けられた土橋が唯一の通路で、現在ここには復興櫓門が建つ。

正保絵図では本丸と二の丸の周囲を堀が囲み、さらに曲輪が囲むという厳重な構えになっており、太鼓部屋、向屋敷、家老の屋敷、薬園、牢屋など多くの施設があった二の曲輪跡には回遊式の日本庭園がある。
また本丸跡は復興天守のほか、八陣の庭として整備されている。天守とともに造園された砂庭式枯山水庭園で、諸葛孔明の八陣法により、中央の大将を囲むように天・地・風・雲・鳥・蛇・龍・虎の石が配され、国の名勝に指定されている。
庭園設計の第一人者である重森三令氏により造園されたものだそうだ。全体的には街中の小ぶりな城域だが、和歌山城、大坂城など周囲の居城の抑えの城であり、これらの城とセットで訪れるのもよい。
(平成26年8月訪問 #124)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、岸和田城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ関連ホームページ

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