歴史の勉強

下野国  川崎城

    

本丸下一の堀切

二の丸を望む(手前が堀切)

塩谷城とも蝸牛城ともいう川崎城は栃木県矢板市にある城である。東北道矢板インターの少し北側、県道矢板塩谷線が東北道を潜る脇に川崎城跡公園があって、城跡からは東北道が見下ろせる。おそらく城跡の一部も高速道路によって破壊されてしまったのだろう。
この城を見つけたのも偶然で、矢板インターに向うべく県道走行中に城跡公園の看板を見つけて、たまたま立ち寄った。駐車場に建っていた案内板によれば、川崎城は平安時代末から戦国時代にかけて塩谷地方を支配した塩谷氏の本拠地であったという。
丘陵全体を使った山城で、城域は南北1500mに及び、東西は宮川と弁天川に挟まれた340mというから、非常に細長い城である。
主郭部は城跡の中央のやや南側に位置し、東西44m、南北140mの三日月形をしている。主郭部と東側の宮川との標高差は47mあり急斜面となっている。
この急斜面に掘られた堀切が左側写真であり、現場に立つと凄まじい急傾斜である。本丸の周囲には広い空堀が残っている。右側写真は本丸から二の丸を望んだもので、間の堀切の広さがわかる。
駐車場から傾斜を上ると、数段このような削平地が構えられていて、いずれも空堀と土塁がその周りを巡っている。かたつむりの殻のように見えることから蝸牛城の別称がついたという。

この川崎城は塩谷朝業によって築城されたといわれている。朝業は宇都宮業綱の二男で、鎌倉幕府の御家人として活躍したとされ、将軍実朝とも和歌を通じて親しかったらしいから文武に秀でた相当の人物だったらしいが、建久五年(1194)に周防国に配流された
塩谷氏は朝業の跡は19代にわたって続き、川崎城を本拠とした。宇都宮氏に属したが、十三代教綱が宇都宮氏に謀反して宇都宮氏の当主持綱を殺害した。
しかし教綱も和睦を口実に宇都宮城に招かれて殺され、十四代の隆綱の代に一旦断絶した。その後宇都宮氏と和睦し、孝綱によって再興され再び川崎城は塩谷氏の本拠となった。孝綱以降の塩谷氏は重興塩谷氏(再興塩谷氏)などと呼ばれる。
しかし塩谷氏は時代が下るとともに衰退し、川崎城も数度戦場となった。しかし落城したことは一度もなく、難攻不落の城といわれた。
塩谷氏十九代義綱は秀吉の小田原征伐の際に恭順して引続き川崎城主を認められたが、文禄4年(1595年)に改易となった。改易理由は不明だが、豊臣政権内の政争に巻き込まれたものと考えられている。義綱の改易とともに川崎城も廃城となった。
(平成21年10月訪問 #74)

参考文献:歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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