歴史の勉強

越後国  春日山城

    

春日山城は、上越市中部の春日山に築かれた中世城郭で、山頂部の本丸をはじめとする主要部分のほか、中腹から麓にかけて侍屋敷が設けられ、全山一体となった山城で、付近の支城郡と合わせて難攻不落といわれた城塞であった。
築城時期ははっきりしていないが、南北朝期に越後守護であった上杉氏が、府中館の詰め城として築いたのではないかといわれている。とはいえ築城当時の規模は、戦国期の謙信時代とは比較にならず、籠城用の城であった。
この城を大拡張したのは長尾為景であったらしい。長尾氏は関東八平氏の一で、由緒ある一族であるが、そのうち越後の移り守護代を世襲したのが府中長尾氏であった。

府中長尾氏は為景のときに永正の乱を起こして下剋上に成功し、越後での実権を握った。この為景が居城としたのが春日山城であった。しかし多くの国人がいた越後では、為景の権力は安定せず、晩年には国人の叛乱に悩まされた。
天文5年(1536年)に為景が没すると長子晴景が継いだが、病弱であり覇気にも乏しかった。重臣の間に危機感が広がり、晴景弟の景虎を擁してクーデターが起きた。天文17年(1548年)のことで、この景虎こそのちの上杉謙信である。
景虎は戦巧者で3年近くかけて越後を統一した。さらに後北条氏に追われた関東管領上杉憲政ほ庇護し、永禄4年(1561年)に憲政から関東管領職と山内上杉家の家督を譲られ、上杉政虎を名乗る。元亀元年(1570年)には法名不職庵謙信と称した。


大手道

景勝屋敷跡

千貫門付近堀切

毘沙門堂

大井戸

本丸跡

城の本丸へは、復元された大手道ルートと千貫門コースがある。復元された大手道は、大手池の土塁を望むあたりから森が深く急坂となる。南三の丸を経るとさらに急坂で森林の中を登る。
あたりが開けると重臣だった柿崎和泉守屋敷跡、さらにその先には謙信の跡を襲った景勝屋敷跡、鐘楼と続き三の丸に至る。三の丸には景勝と争って敗れた景虎屋敷があったほか、米蔵などがあり土塁も残る。
三の丸の上段が二の丸で、さらにその上が本丸となる。本丸は天守台跡と本丸跡に分かれているが、どちらもさほどの広さではない。しかし春日山城に天守があったはずはなく、どうして天守台跡などという名称なのだろうか。
なお三の丸から二の丸、二の丸から本丸にかけては堀切など見所が多く、春日山城のスケールの大きさを十分堪能できる。また本丸からの眺めも抜群。

一方千貫門コースは春日山神社から始まる。春日山神社前には巨大な謙信像が建っている。駐車場の位置関係から、こちらのルートをとるのが一般的で、暫く森の中を登っていくが、その手前にお屋敷とよばれる曲輪跡が残る。
お屋敷の名は城主の屋形跡からきているらしい。春日山神社の裏手に千貫門がある。非常に強固な門であったとされ、堀切が2本残っているが、この付近の竪堀の高さはすさまじい。
千貫門のすぐ上には重臣直江氏の屋敷跡がある。ここから左に行けば二の丸に至る。直江屋敷は三段の曲輪にわかれ、それぞれに堀切が切られ、曲輪は土橋で結ばれている。

直江屋敷の上には薬草園であったお花畑といわれる曲輪があり、その先が本丸下の曲輪で、ここには毘沙門堂、諏訪堂、護摩堂が並んでいた。毘沙門堂、護摩堂は復元されているが、謙信が出陣前に籠ったといわれるのが毘沙門堂で、感慨深い。
また本丸の裏側には一段下がって大井戸がある。この大井戸のある曲輪を経ていくと二の丸を経由せずに、景勝屋敷の近くに出れる。本丸周辺の各曲輪の廻りは深い堀切が切られている。
このように書くと簡単なのだが、春日山神社から千貫門を経て本丸周辺を巡り、二の丸、三の丸、景勝屋敷を見て大手道を降りると、2時間はかかる。

この巨大な山城から謙信は越中、能登、加賀などの北陸路や信濃、さらには三国峠を越えて関東へ出撃した。義に篤く戦上手だった謙信だが、天正6年(1578年)49歳で没した。
生涯独身だった謙信には子がなく、後継の座を巡って養子の景勝と景虎が争い、景勝が勝利した。景勝は現実路線を歩み、豊臣政権下では五大老のひとりとなったが、慶長3年(1598年)に会津に転封となった。
春日山には秀吉の側近だった堀秀政の子の秀治が45万石で入封した。移封に不満の上杉家では、領民を使って一揆を起こしたりしたが鎮圧された。秀治は時代遅れとなった山城から直江津近くに福島城を築いて移り、春日山城は廃された。
(平成27年10月訪問 #138)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、春日山城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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