歴史の勉強

武蔵国  葛西城

    

環七通りを挟んで本丸跡

本丸であったらしい場所

東京を走る幹線道路の中でも一、二を争うほどの最重要道路環七は、環八とともに計画路線名がそのまま道路名になっていて、味も素っ気もない道路である。
その環七が水戸街道(国道6号)と交差する青戸陸橋の南側に、環七は挟んで2つの小公園がある。西側の小公園を御殿山公園といい、東側のそれには葛西城跡公園の名が付けられている。
ここが葛西城跡で、昭和47年に発掘調査が行われて、数々の遺物が見つかっているが、その後環七の下に埋め戻されてしまい、今の世には名残のように小さな公園だけが残された。
現在でも中川がすぐ近くを蛇行してながれているように、古くからこの地は川に沿う湿地帯であり、葛西城もそれらを天然の要害としていたことは容易に推察できる。

築城時期や築城者は不明であるが、戦国期には武蔵と下総の国境の城として、重要な拠点であった。小田原に拠った後北条氏は相模ついで武蔵を手中にし、里見氏をはじめとする房総の諸将と対立する。
さらに関東公方家の内紛が絡んで、天文7年(1538年)に第一次国府台合戦が起きた。これに勝利した後北条氏は下総にも勢力を拡大するが、江戸城主太田康資の謀反がきっかけで永禄6年(1563年)に第二次国府台合戦が起きる。
この第二次国府台合戦の北条方の先陣で、戦死した遠山綱景は葛西城の城主であったという。
このように葛西城は戦国時代には後北条氏の前線基地であったが、後北条氏滅亡後は徳川氏により廃城とされたうえ、青戸御殿が建てられ、鷹狩りの際の宿舎とされた。
明暦3年(1657年)に明暦の大火によって焼失した江戸城の再建の為に、青戸御殿の資材が供出されることになり、取り壊された。
(平成21年5月訪問 #46)

参考文献:歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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