歴史の勉強

加賀国  金沢城

石川門遠景


加賀国は長享2年(1488年)に守護大名冨樫政親が一向宗門徒を中心とした一揆衆に滅ぼされてから、「百姓の持ちたる国」と言われ、大名や豪族ではなく一向宗門徒が支配する国であった。
その拠点となったのが金沢御堂(尾山御坊)であった。金沢御堂は、天文15年(1546年)に石山本願寺から本尊が下され創建さ、その御堂は金沢城本丸の位置であったと言う。
今も城内に架かる極楽橋と呼ばれる橋があるが、その橋が御堂への橋であった。即ちお参りすることによって極楽浄土へ行けるという意味が橋の名に込められている。
金沢御堂は加賀の政治の中心となり、隣国越中や能登、越前の門徒をも勢力下に置き、越後の上杉氏や越前の朝倉氏とも軍事衝突をしている。

しかし越前の朝倉氏を滅ぼした織田信長が、天正年間に加賀国境を侵し始める。門徒衆は織田軍に抵抗するが、門途衆が信長に対抗するために軍事同盟を結んだ上杉謙信の急死、石山本願寺の信長への降伏など門徒衆は追いつめられ、ついに天正8年(1580年)に織田軍の柴田勝家の攻撃によって金沢御堂は陥落した。
柴田勝家は金沢御堂の地に甥の佐久間盛政を入れ、盛政は金沢御堂を尾山城と改めて城下町の町割を始め、また一方で加賀国内の一向衆門徒の掃討を行った。
しかし天正11年(1583年)に叔父の勝家とともに賤ヶ岳の戦いに敗れて斬首される。代って加賀の支配者となったのは前田利家であった。
利家は柴田勝家の与力であり、勝家のもとで北陸地方に戦い、金沢御堂陥落後は能登を与えられていた。織田信長が本願寺に斃れた後継を柴田勝家と羽柴秀吉が争った賤ヶ岳の戦いで、利家は秀吉に懐柔されて出陣はしたものの不戦だった。
戦後、秀吉はその功に報いるために利家に加賀国石川、河北両郡を与え、利家は金沢に入城した。

利家は尾山の地を再び金沢と改めて、城の修築と城下の建設をしようとした。だが、軍事出動に忙しくて、なかなか進まなかった。
利家はもともと秀吉とは親しく、利家の妻まつ、秀吉の妻ねねを交えた家族ぐるみの付き合いであった。秀吉の信頼も厚くて、秀吉の側近の一人となり秀吉とともにあって国政もほとんど見れなかった。
そのために嫡男利長に、金沢城修築を命じた。利長は蓮池堀、いもり堀、白鳥堀の掘削を行い、重臣篠原一孝に石垣普請をさせた。
さらに高山右近を客将に招いて修築を行った。右近はキリシタン大名であったが棄教を拒んだために秀吉から改易され流浪しているところを、利家が客将として招いたのだった。
右近は金沢に教会を建てることを条件にこれに応じ、金沢城の築城に尽力した。右近の築城は高く評価されていて、利家の死後も利長に仕えた。

利家の死後、利長は家康から謀反の疑いをかけられるなど一時は敵視されるが、利家未亡人のまつの機転にも援けられて危機を切り抜ける。
慶長5年(1600年)の関ヶ原役で家康方に与して、戦後その功績によって加賀・能登・越中120万石が与えられ、ここに金沢は100万石の城下町と言われるようになる。
そして金沢城はその石高に相応しい威容を備えた城になっていくが、その過程でも右近の果たした役割は大きいと言われるが、キリスト教禁教令によって国外追放となり、マニラで死去した。

金沢城は地形の関係から落雷に見舞われ幾度か火災に遭っている。慶長7年(1602年)に天守に落雷して本丸などを焼失し、以後天守は設けられず三階御櫓で代用された。
慶長15年(1610年)右近に代った篠原一孝によって外堀を掘り、犀川から水を引いて防火用水を兼用させた。しかし寛永8年(1631年)の大火では城内はほぼ全焼し、これ以後本丸御殿も再建されることはなかった。
翌寛永9年に再建された二の丸御殿が加賀藩の藩庁となる。金沢城はこの後も宝暦9年(1759年)、宝暦12年(1762年)、文化5年(1808年)と大火に遭っている。
一方で五代藩主綱紀は搦手の丘陵に林泉廻遊式庭園をつくり、これが十二代斉広、十三代斉泰によって竹沢御殿として整備される。その庭園が兼六園である。

明治になり十四代慶寧は城を出て重臣本多邸に移った。城址には明治31年(1898年)第9師団司令部が設置され、戦後は一時的に米軍の管理下になったのち、金沢大学が開校した。
金沢大学が平成7年(1995年)に移転した後は県有地となり、平成11年(1999年)に二の丸菱櫓、五十間長屋、橋爪門、橋爪門続櫓の復元事業が始められ平成13年(2001年)に完成した。


百間堀跡

石川門二重櫓

石川門

石川門は搦手口の門で、石川郡に向う門であることからから名付けられたといい、国の重要文化財となっている。天明8年(1788年)3月に再建された枡形門で、外側に高麗門、内側に櫓門が配され高麗門脇には二重櫓があって防備を強固にしている。
石垣は明和2年(1765年)に修築された際のものだと言われる。門前には百間堀(蓮池堀)と呼ばれる堀があり、寛永8年(1632年)の大火後には辰巳用水を導水して防火を兼ねた水堀とした。
現在、百間堀跡は道路と公園になっていて、城址と庭園(兼六園)を隔てている。

  

橋爪門と続櫓

二の丸菱櫓

五十間長屋と菱櫓

五十間長屋内部

橋爪門は三の丸から二の丸への正門で、左側に鶴の丸出窓(合図や時報を告げる太鼓櫓といわれる)を持ち、続櫓は見張りのための櫓で、菱櫓と対を成す。
菱櫓は高さ17メートルと二の丸で最も高く、宝暦9年(1759年)に御三階櫓が焼失して以後は金沢城のシンボル的な存在であった。五十間長屋は菱櫓と橋爪門続櫓をつなぐ多門長屋で、城壁をなすと同時に武器や武具の倉庫として利用された。
いずれも明治14年(1881年)の大火で河北門などとともに焼失したが、平成11年(1999年)から菱櫓、五十間長屋、橋爪門、橋爪門続櫓の復元事業が始められ、平成13年(2001年)に完成をみた。


切手門

三十間長屋

戌亥櫓跡

鶴の丸倉庫

本丸東側の石垣

玉泉院丸に面した石垣

切手門は二の丸、御広敷向きの裏口、三十間長屋(国重要文化財)は安政5年(1858年)に建てられた景観を重視した二層二階の多門櫓で武器や武具の倉庫として使われた。
戌亥櫓は本丸の北西に建てられた二重櫓であったが、宝暦9年(1759年)の大火で焼失した。鶴の丸倉庫は江戸末期に建てられ、明治以後は陸軍の倉庫としても使われた土蔵。
金沢城は石垣でも有名である。本丸東側の石垣は野面積みで、城内で最も古く文禄・慶長期に築かれ、玉泉院丸庭園に面した石垣は色紙短冊積みの切込みハギなど、石垣の博物館と言われるほど、金沢城では多種多様の石垣を見ることができ、石垣を巡る探訪ルートもあるほど。
(平成20年8月訪問 #22)

参考文献:城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、名城を歩く・金沢城(PHP研究所)、よみがえる日本の城(学研)、金沢城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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