歴史の勉強

出羽国  上山城

    

模擬天守

水堀跡

土塁跡

武家屋敷「曽我部家」

山形新幹線での駅名は「かみのやま温泉」と仮名書きで、今では温泉を前面に出しているが、この温泉の発見は古く長禄2年(1458年)といい、温泉宿場として繁栄したいた。
江戸時代には小藩ながら上山藩が置かれ、歴とした城下町であった。月岡城とも呼ばれたその城址は、駅から徒歩で10分ほどのところにある。
もともと上山近辺は名門最上氏の勢力圏の南端にあたり、最上氏の庶流天童氏の一族である上山氏が支配していた。そのころの本拠は虚空蔵山の高楯城であったという。
上山義房が永正5年(1508年)に伊達氏により滅ぼされ、この地は伊達氏の家臣小梁川貞範に与えられたが、義房の子の義忠が城を奪い返し、天文4年(1535年)に現在地に城を築いた。
以後義節‐満兼と続いたが、このころから天童氏は最上の当主義光と対立し、天童一族の満兼も反義光となって行った。天正8年(1580年)に最上義光は満兼家臣の里見民部を調略して寝返らせ満兼を暗殺させて上山氏を滅ぼした。
いかにも最上義光らしい話で、上山領は最上家に併呑され、里見氏が上山城代となった。

最上氏は関ヶ原役でも早くから東軍につき、その結果上山城は南隣の上杉軍(西軍)との境界の城となった。城は上杉軍の攻撃をうけたが、里見民部は奇襲により大戦果をあげたという。
関ヶ原役により上杉家は大減封され米沢30万石に、一方最上家は山形57万石の大藩となった。しかし最上家はカリスマの義光が死去すると政治が安定せず、騒動を起こして元和8年(1622年)に改易され、その領地はいくつかに分割された。
上山には松平(能見)氏が4万石で入って上山藩が立藩され、以後松平(能見)氏二代、蒲生氏(4万石)一代、土岐氏(2.5万石→3.5万石)二代、金森氏(3.8万石)一代と藩主は目まぐるしく変わった。
元禄10年(1697年)に金森氏が美濃郡上に転封され、備中庭瀬から松平(藤井)氏が3万石で入るとようやく定着し、明治の廃藩置県まで十代130年にわたり支配した。

月岡公園として整備された城址のシンボルは復興天守である。昭和57年(1982年)に郷土資料館として建てられたもので、犬山城天守を模した模擬天守である。
上山城の中心は一段高いところにある本丸で、水堀に囲まれて南東隅には三重天守があった。この天守は土岐氏転封後の元禄5年(1692年)に取り壊されている。以後、小藩のために天守は築かれることなく、城の中心も二の丸に移っている。
本丸の周囲を一段低い二の丸が取り囲み、この二の丸も堀に囲まれていた。二の丸から本丸へは南と東に門があったが、東側の城門は門の上に二重櫓があった。
模擬天守北側の切通しのような道路が水堀の跡で、本丸跡は月岡神社になっている。ほかに遺構としてはわずかに土塁跡が残る程度であるが、城下には4軒の武家屋敷が残っている。
曽我部家、山田家、三輪家、森本家でいずれも住いとして使われてるために内部の見学はできないが、敷地内には入ることができ庭園も公開されている。
(平成21年9月訪問 #88)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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