歴史の勉強

遠江国  掛川城

復元天守


足利尊氏によって駿河守護に任ぜられた今川氏は、やがて戦国大名への転化に成功し、隣国遠江をもその支配下に置いた。
もともと室町時代初期には今川氏は遠江守護も兼ねていたが、遠江守護はのちに斯波氏に代わった。やがて斯波氏は内紛から勢力が衰え、その支配下の国々では下克上が起き、遠江でも国人領主たちが台頭してきた。
応仁の乱が始まると駿河守護の今川義忠は任国の駿河に入り、遠江にも侵攻してその大半を支配下に起き、戦国大名に発展していったのである。
今川氏は掛川を遠江経営の拠点のひとつにし、重臣筆頭の朝比奈氏を置いた。これが中世掛川城の始まりといわれ、以後朝比奈氏は三代に渡ってこの地にあった。

今川氏は永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで当主義元が戦死し、急速に衰退していく。西の三河からは今川氏の属将であった徳川家康が独立して織田信長と同盟し遠江を窺い、北からは戦国随一の武将武田信玄が駿河を狙った。
やがて駿府の今川館は信玄に囲まれて、義元の跡を継いだ今川氏真は支えきれずに、朝比奈氏の掛川城に逃げた。ところがすでに遠江に侵攻してきた家康に、今度は掛川城を攻められるのである。
掛川城が世に名城として知られるのは、この時からである。家康は掛川城を大軍で囲んだが落すことができなかった。焦った家康はついに武力で落すことをあきらめ、氏真に対して講和を持ちかけて、半ば氏真を騙すような形で開城させたという。
永禄11年(1568年)12月27日から翌永禄12年5月17日までの長い間、掛川城は家康の前に立ちはだかったのである。
家康は掛川城を我が物にすると重臣の石川氏を入れ、秀吉による家康の関東移封によって、豊臣大名の山内一豊が掛川5万石(のち6万石)として掛川城主となった。

ここではじめて掛川は大名の城になり、同時に近世掛川城がはじまった。一豊は掛川城を大改修し、城下町を整備して近世掛川の基礎を築いた。
現在城地に聳える天守は平成6年に復元されたものであるが、最初に掛川城に天守を築いたのは一豊であった。天守は朝比奈時代に本丸のあった場所に建てられ、その南側に本丸が配された。山内時代の本丸は朝比奈時代には墓所であった。
天守と本丸の東側に二の丸、三の丸を置き、本丸への虎口は十露盤(そろばん)堀、三日月堀、松尾池(内堀)を配し、さらに城地の南側を東西に蛇行していた逆川を堀として取り込んで要害化した。
一豊は上方で伏見城築城を手伝い秀吉の築城思想を学んでいる。5万石には過ぎた要害を築けたのも伏見城での経験があったからであるが、その背景には関東の家康牽制があったことは当然であろう。

しかし秀吉が没すると一豊は家康に急接近し、関ヶ原の際にはこの要害を率先して家康に明け渡した。この行為が戦後に一豊を土佐一国の領主に栄転させる。
以後、江戸期を通じて掛川は譜代大名の城地となり、城主は目まぐるしく入れ替わったが、享保5年(1720年)に太田資俊が5万石で入って安定し、太田氏が7代に渡って相伝して明治を迎えた。
この間、掛川城は何度か地震に見舞われており、慶長9年(1604年)の地震で天守が大破し、元和7年(1621年)に再建、しかし嘉永7年(1854年)に大地震によって倒壊し、平成の世まで再建されなかった。
平成の天守再建の際には、一豊が転封した高知城に天守を建てる際に「掛川のとおり」と指示していることから、高知城天守が参考にされた。
一豊は高知に移ってから暫くして没するが、自分自身が築いた城、町として掛川を愛しく思ったのであろう。

左:大手門、右:大手門付番所

平成7年6月に大手門が復元され、これに合わせて大手門付番所が移築された。番所は明治以後の民家として使用され、のち掛川市に寄贈され保存されていたものであった。また大手門は本来よりも50mほど北に復元された。
大手門を入ると天然の堀として取り込まれた逆川を渡り、左に曲がっったところが三の丸で、現在は公園となっている。その先が城の中核への入口で、正保城絵図では玄関下門があり、さらに進むと三日月堀と本丸への門がある。

左:三日月堀、右:四足門

三日月堀は本丸への虎口の前に配された、その名の通り三日月の形をした水堀で、長さ30m、最大幅は19m、最深部8mの堀で松尾池や十露盤堀と暗渠で結ばれていて、これらの間で水位の調節がなされていた。
堀と暗渠施設はすでに朝比奈時代に作られたものを、山内時代に虎口枡形として整備したものと考えられている。
また、四足門は発掘調査では遺跡が見つからなかったものを、正保城絵図により復元したもので、本来はもう少し南に寄っていて、三日月堀が現在のこの門の位置まであったともいわれている。
四足門のすぐ先に本丸門跡があり、左手には太鼓櫓がある。太鼓櫓は三の丸東南隅にあった櫓で、正保城絵図では三重櫓として描かれている。
太鼓によって時を報せたために太鼓櫓とよばれ、嘉永7年の地震で倒壊後に再建され、その後民間に払い下げなどを経て現在地に移築されたもの。
この正面が山内時代からの本丸跡であるが、整地されて公園となっている。本丸を正面にして右側から復元天守へ登ることになる。

左:霧吹井戸、右:天守から南東方向を見る

天守丸には霧吹井戸がある。この井戸は今川氏真が籠城したときに、ここから霧が吹き出して城を守ったという伝説により、掛川城の別名雲霞城の名の由来でもある。
天守から東南方向を見ると掛川市街が一望できる。右写真の中央左寄りにあるのが太鼓櫓、その左の門が四足門で逆川の流れを挟んで大手門が見える。

二の丸御殿(中:御書院上段の間)

天守から南に目を向けると、そこには二の丸御殿が望める。二の丸御殿は藩主の住居と藩庁を兼ねた建物で、当初は本丸に建てられていたものが、老朽化や災害によって二の丸に移されたという。
現在の御殿は嘉永7年の地震で御殿も倒壊したために再建されたもので、書院造で御殿外観は漆喰真壁造、下見板張、総面積は947㎡(287坪)、7棟20数部屋と広大なもので、表(藩主の公務の場)、中奥(藩主の私的な場)、諸役所の各部分に分かれている。
なお、奥向き(寝所、家庭の場)については、嘉永地震後は山下郭に仮御殿が設けられたために付いていない。現存する御殿は掛川城のほかに二条城、川越城、高知城に残るだけで、国指定重要文化財になっている。御書院上段の間は藩主との謁見に使われる部屋である。

掛川城には他にも十露盤堀や土塁、腰櫓台などが城内に残るほか、蕗門(三の丸東側の門)が市内円満寺に玄関下門((三の丸西側の門)が袋井市油山寺に移築されて現存する。
(平成20年10月訪問 #44)

参考文献:城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、よみがえる日本の城(学研)、掛川城のすべて(掛川市教育委員会)、掛川城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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