歴史の勉強

但馬国  出石城

    

辰鼓楼と大手門跡

家老屋敷

登城橋と登城門

本丸西隅櫓

本丸東隅櫓

稲荷曲輪の石垣

出石に行ったのは平成25年(2013年)9月3日のことで、この時は京都府北部~兵庫県中北部を3泊4日で回ったのだが、連日雨にたたられて予定変更の連続。
3日目の午前中だけは雨が降らずに曇り空で、前日に行く予定だった出石城に急遽向かった。
駐車場に車を入れると、すぐ正面は出石城址で、復元された登城門があり、門前を流れる谷山川に登城橋が架かるが、往時はここに川は流れていなかったという。

北側に少し離れて有名な辰鼓楼が建つ。辰鼓楼は明治4年(1871年)に建てられ、その名の通り太鼓で時を告げていたが、その後オランダ製の時計に変えられている。
この付近が往時の大手門跡で、辰鼓楼は大手門櫓台上に建てられている。出石城の南側には有子山が聳えているので、城下は北側に広がっており、観光地出石の中心もこの付近となる。
登城橋を渡って城址に入る前に、西門跡の石垣や仙石氏時代の家老仙石左京の屋敷跡の長屋門と家老屋敷もぜひ見学しておきたい。家老屋敷の内部も見学可能である。

もともと出石は但馬国の中心で、中世期には守護所が置かれていたが、そのころ守護であった山名氏の居城は、現在の出石城址から北に3㎞ほどのところにあった此隅山に築かれた。
山名氏は一時期強大な勢力を誇り、一族で11ヶ国の守護を占めたほどだったが、内紛や足利将軍家との確執、さらに応仁の乱で勢力は衰えていった。
但馬は山名氏の本貫ともいっていい国で、その勢力が衰えても宗家が但馬守護として命脈を保っていたが、東方から織田信長が押し寄せてくると対抗し得ず、当主山名祐豊は信長に恭順の意を決めて、信長に献金して但馬を安堵された。

祐豊は居城を有子山城に移した。現在でも有子山の山頂部には石垣が残るが、この石垣は山名氏以後のものともいわれている。天正8年(1580年)に祐豊が没して氏政が家督を継ぐと、秀吉は山名氏を攻めて降伏させた。
ここに山名氏の但馬支配は終焉となり、翌天正9年には青木氏が、さらに天正13年(1585年)には前野長康が出石城主となった。しかし長康は豊臣秀次事件に連座して除封され、代って小出吉政が封ぜられた。
吉政は吉政は関ヶ原役では西軍に属し、丹後田辺城の細川幽斎攻囲戦に加わったが、弟秀家が東軍で戦功を挙げたために領地を安堵された。

小出氏は吉政の父で岸和田藩主だった秀政が死去すると、吉政が岸和田藩主となり、出石は吉政弟の吉英が継いだ。慶長18年(1613年)年に今度は吉政が岸和田で没すると、吉英が岸和田に移り、吉英弟の吉親が出石藩主となる。
吉親は元和5年(1619年)に丹波園部に転封となり、再び吉英が岸和田から移ってきて、5万石で2度目の出石藩主となった。吉英は城を有子山からその北麓にあたる現在の地に移した。
以後小出氏は六代にわたり藩主を継いだが、元禄9年(1696年)に英及が嗣子なくして急逝して絶家となる。松平(藤井)忠徳が短期間城主となったのち、仙石家が入り六代にわたって継承し廃藩となった。

出石城は平山城であり、曲輪を四段に造成している。最上段を稲荷曲輪といい、以下本丸、二の丸、下の曲輪が階段状に配される。下の曲輪の北側が三の丸であり、北に大手門があったほか、東西にも門があり3つの門の間を内堀が巡っていた。
現在でも内堀の一部が残っている。櫓は下の曲輪に一基、二の丸の北西に二重櫓が一基と二の丸東門脇に一基、本丸北東に一基の計四基があった。
現在本丸には西隅櫓と東隅櫓が復元されているが、いずれも模擬櫓で、本丸の櫓の構造は一切不明である。本丸と二の丸には御殿があったとされるが、松平氏以後は三の丸を居所としていたようだ。

いずれにしろ出石城の古図には御殿の位置や櫓の形状が描かれておらず、その全容は明らかになっていない。また二の丸の東に山里丸、西には西の丸があり、稲荷曲輪には有子山への登城路があるほか石垣が残る。
石垣は二の丸のものも見ごたえがあり、また三の丸には土塁も残る。城址の東側の経王寺と北側の見性寺は有事の際に櫓の役割を持たせられていたといい、その鐘楼は櫓を思わせる。
(平成25年9月訪問 #123)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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