歴史の勉強

武蔵国  岩槻城

    

黒門

裏門

堀障子跡

岩槻城は元荒川の右岸にある台地に築かれ、元荒川と綾瀬川、その周辺の沼沢地を天然の堀とした、3万2千坪といわれる広大な城であった。
絵図を見ても沼沢地をそのまま利用した広大な水堀に囲まれて、連郭式に曲輪が配されており、「よみがえる日本の城」(学研)の復元イラストを見ても、まさに水に囲まれた城という形容がぴったりである。
そのために浮城ともいわれるが、現在岩槻城跡公園として残るのは、城の南東の新曲輪・鍛冶曲輪の一部分だけで、本丸・二の丸・三の丸など主要部分は、明治5年(1872年)に民間に払い下げられてから市街地化が進み、遺構はまったくといっていいほど残っていない。

岩槻城は室町期に扇谷上杉氏の持朝が太田道真に命じて築かせたとする説、道真の子の道灌が築城したとする説、忍城主であった成田氏が築いたとする説など様々あるが、道灌築城説がもてはやされる。
ともあれ16世紀の前半には太田氏の支配下にあったことは間違いなく、大永5年(1525年)城主太田資家(道灌の養子)は後北条氏に城を攻略され、岩槻城は北条氏の支配下に入った。
資家の子の資頼は享禄4年(1531年)に岩槻城を奪還し、再び太田氏の城となるが、永禄7年(1564年)に資頼の孫氏資とその弟政景のあいだに継嗣争いがおき、氏資は後北条氏を頼んで争いに勝利し、岩槻は後北条氏の支配下に入った。
永禄10年(1567年)の三舟山合戦で氏資が戦死すると、北条一門の氏房が太田氏を継いで、その結果岩槻は後北条氏の直接支配地となった。

天正18年(1590年)に豊臣秀吉により小田原征伐の際に、岩槻城は2万の軍勢に包囲されて落城し、後北条氏も秀吉によって滅亡させられてしまう。
後北条氏滅亡後の関東には徳川家康が入り、岩槻の地は高力清長に与えられた。関ヶ原役での家康勝利後に江戸に幕府が開かれると、岩槻の地は江戸北方の守りの地として重視され、代々譜代大名が城主となった。
宝暦6年(1756年)に大岡忠光が2万石で入封するまでは、高力氏二代-青山氏-阿部氏五代-板倉氏-戸田氏-松平(藤井)氏-小笠原氏二代-永井氏三代と頻繁に城主が交代したが、大岡氏入封後は大岡氏が八代に渡って在封し廃藩置県を迎えた。
また、岩槻城は日光社参の際に将軍家が宿泊する城でもあった。将軍の日光社参は江戸期を通じて19回行われ、往路復路ともに岩槻城で宿泊した。
このために比較的早い時期、阿部氏の時代あたりから藩主は二の丸に居住し本丸は将軍御座所となっていたらしく、さらに松平(藤井)忠周が藩主のときの火災により、以後藩主は三の丸に居住し、二の丸を将軍御座所とした。

現在の城跡公園内には空堀が残り、堀障子跡も発掘された。堀障子は寄せ手の移動を封じるために、堀の底を土塁で升目に区切ったもので、後北条氏特有のものであった。
発掘調査後に堀障子跡は埋め戻されていて直接は見れないが、解説版には写真が掲げられている。空堀は複雑に入り組み規模も大きく、かつての城の雄姿を想像させる。
このほか公園内には堀の一部と考えられる池や黒門と呼ばれる城門、裏門と伝えられる薬医門が移築されている。黒門は長屋形式の門で廃城後に県庁や県知事公舎の正門、岩槻市役所通用門として利用され、昭和45年(1970年)に公園内に移築された。
裏門は民間に払い下げられたが、その後岩槻市に寄贈され、昭和55年(1980年)に公園内に移された。ただし、黒門・裏門とも城内の位置は定かではない。
(平成21年6月訪問 #29)


時の鐘

藩校遷喬館

「岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南柯と時の鐘」といわれ、岩槻城下に時を報せた時の鐘は、寛文11年(1671年)に阿部正春の命で鋳造された。
享保5年(1720年)に鐘にひびが入り、城主永井直陳により改鋳されたのが今の鐘といわれる。堂は嘉永6年(1853年)に建て替えられたもので、現在は住宅街の中の小公園にひっそりと建っている。
また、裏小路には藩校遷喬館が残っている。遷喬館は、大岡忠正が士風刷新を目指し、文武の奨励のために寛政11年(1799年)児玉南柯に命じて私塾として開いたのがはじまりで、文化8年(1811年)には藩校となった。
遷喬館の名は中国の書「詩経」の一節「出自幽谷遷干喬木」(鳥が明るい場所を求めて暗い谷から高い木に飛び遷る)に由来する。敷地内には遷喬館のほかに武芸稽古所、菅神廟(菅原道真を祀る)、南柯の私宅などもあったという。

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、新編物語藩史(新人物往来社)、岩槻城と城下町(さいたま市立博物館)、歴史読本・歴史と旅各誌、遷喬館パンフレット、関連ホームページ

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