歴史の勉強

陸奥国  岩出山城

    

本丸から南曲輪群を望む

堀切から市街を望む

有備館

奥州の雄、伊達政宗が慶長8年(1603年)に仙台に移るまで12年間、居城としたのが岩出山城である。岩出山城は政宗が拠る前は岩手沢城といい、戦国期までこの地を支配していた奥州探題の名門大崎氏の家臣氏家氏が治めていた。天正18年(1590年)に豊臣秀吉の奥州仕置によって大崎氏は滅亡し、秀吉の側近木村吉清が入った。
信長が本能寺に斃れた跡を継いだ秀吉は、その力と運によって西日本を統一し、関東、奥羽の平定に懸った。この前に立ちはだかったのは関東小田原の後北条氏であった。
秀吉は小田原に大軍を派遣して小田原城を包囲し、関東の北条方の城を片っ端から攻め落とした。その間、奥羽の諸将に小田原参陣を求めた。もし小田原に参陣せねば後北条氏攻略のあと攻め滅ぼすというのである。
大崎氏の当主義隆は名門であるが故かどうかしらないが、参陣しなかった。政宗はギリギリ間に合った。秀吉は後北条氏を滅亡させたあと奥州に向い、奥州諸将の所領を決めた。これが奥州仕置で、参陣しなかった大崎義隆は所領を没収され、あっさりと滅亡した。

大崎氏の旧領を与えられた木村吉清は、小身かつ小心な官僚に過ぎなかったが、それがいきなり30万石の領地を与えられた。
いきなりの大封に大慌てで家臣を整え検地を行った。だが大慌てで整えた家臣は、足軽や中間を俄に侍に仕立てたり、浪人を手当たり次第に召抱えたりしたから質が悪く、領民に乱暴狼藉を繰り返し、たちまち一揆が起きた。これは葛西・大崎一揆と呼ばれる。
吉清とその子の清久は、主城の寺池城を追われ佐沼城に追い詰められたが、秀吉の命を受けた伊達政宗、蒲生氏郷らによって救出された。
一揆は鎮圧されたが吉清は改易、一方政宗は父祖の地の米沢を取り上げられて、代わりにこの地方を与えられた。秀吉は葛西・大崎一揆は裏で政宗が煽動していたと疑っていたようだ。
政宗の入城は天正19年(1591年)といわれるが、その後の政宗は文禄・慶長の役や関ヶ原役などでほとんど帰国することなく、城は城代の屋代景頼が治めていたという。
政宗の仙台移城後はその四男宗泰が1万5千石を与えられて岩出山城主となった。宗泰は岩出山伊達氏の祖となり、江戸幕藩体制のもとでは岩出山要害とされ、その子孫は代々岩出山の地を治めた。

岩出山の市街のどこからでも岩出山は望め、本丸下まで車で登ることが出来る。本丸下にSLが置かれた広い駐車場があり、その奥が東腰曲輪である。
駐車場から坂道を登っていくと、あっさりと本丸になる。本丸域は南北に長く、その中に桜の木が多く植わり、やっていない売店や旅館、さらには野外ステージといろいろ造られている。桜の季節には花見客で混むのだろう。
内門跡を抜けると白装束の政宗像が鎮座していている。この像は仙台城にあったものを昭和37年(1962年)に移したものだそうだ。本丸の東側には階段があり、そこから南側の曲輪群を見ると、なるほど城の感じがよく出ている。
階段を下りると本丸に沿って二の丸がやはり南北に長く、遊歩道がついている。地図では二の丸を経由して北の空堀や堀切経由で東腰曲輪に出れるのだが、途中で通行止め。

実は岩出山城は、城址としての整備はほとんどされてなく、案内や説明版もまったくといっていいほどない。通行止めも昨日や今日のことではないらしく、あまり城を前面に押し出す気はないらしい。
しかも花壇などが遊歩道周りに造られているが、その花壇もほったらかし状態。遺構はそれなりにあるのだから、野外ステージなど作るくらいなら遊歩道の整備でもして欲しいところだ。
一応、出丸であるダルマ広場までは行けるので、その途中にある空堀越しに見た岩出山市街写真を載せておく。
さて、気を取り直して岩出山を降りると、有備館がある。有備館とは岩出山伊達氏二代の宗敏の隠居所として延宝5年(1677年)に建てられたとされ、その後下屋敷、隠居所、学問所として使用された。
近くにはJR有備館駅も出来ていて、岩出山見学には岩出山駅より有備館駅の方が便利だ。この有備館は日本最古の学問所建築で、学問所として使われた付属屋、棟続きで下屋敷や隠居所として使われた主屋が建ち、さらに岩出山の断崖を借景にした廻遊式池泉庭園がある。
(平成22年9月訪問 #63)

参考文献:歴史読本・歴史と旅各誌、有備館パンフレット、関連ホームページ

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