歴史の勉強

安房国  稲村城


JR内房線館山駅から安房鴨川行きの普通電車で6分、次の駅が九重である。小さな無人駅で、ホームに下りて館山方向を見ると40メートルほどの木々に覆われた山が見える。これが稲村城址である。
稲村城は戦国前期の安房の国の中心であったされる城であった。安房国にはもともと足利氏の所領が多く、里見義実が安房に入国したのも足利氏の所領を守るためとされている。
義実は足利氏と対立していた上杉氏の安房における拠点であった白浜城を制圧して、白浜を拠点として勢力を伸ばし、反対派を抑えて当時の安房国の中心であった稲村城に進出したとされる。

稲村城に入った里見氏は義実の跡、成義-義通-義豊と続き、この間に上総にも勢力を伸ばし、やがて関東一円に勢力を広げつつあった後北条氏と対立、三浦半島や鎌倉にまで侵攻する。
しかし義豊のときの天文2年(1533年)、義豊に対して庶流の実堯・義堯父子が後北条氏と結び反乱を起こす。その結果、実堯・義堯父子は稲村城を落として義豊を自害に追い込み、家督が嫡流から庶流に家督が移った。これが天文の内訌で、このときに稲村城は廃されて、里見氏は拠点を滝田城に移したとされている。
この義実から義豊までの時代を前期里見氏と称し、稲村城が本拠であった。よって稲村城には戦国前期までの遺構が残り、NPO法人安房文化遺産フォーラム(里見氏稲村城を保存する会)の手で整備されている。


九重駅から見た城山

東水往来

中郭部

九重駅から館山方向に戻る形で10分ほど歩き、民家の間に稲村城址への入口である東水往来がある。水往来とは空堀を兼ねた城山への切通しのことで、登りきると中郭部に出る。
中郭部は大部分が畑になっているが、緩斜面を多くの腰郭が埋めているのがよく分かる。中郭部には正木様と呼ばれる小さな社があるが、これは里見氏の重臣であった正木氏の末裔が、江戸時代に帰農したときに先祖を祀ったものとされる。
中郭部の反対側には水往来があって、城の西側に通じている。水往来に掛かる手前を右に入ると、腰郭があり主郭に続く尾根道が伸びる。尾根道の途中には横穴墓があるが、横穴墓は城址内の多くの個所で見れる。
    

主郭に続く尾根道

堀切

主郭部

主郭が近づくと中郭部とを仕切る堀切が明確に残り、その先には簡単な枡形の形状が見える虎口があり、主郭となる。この主郭部は山を削って平らにし、さらに三分の一くらいは、わざわざ土盛をして拡張したとされる。
これは版築技法という高度な土木技術で、全国的に見てもめずらしいものだそうだ。主郭部には城址の説明版が立つ以外は何もないが、ここから見ると周囲が手に取るように展望でき、たいして高い山ではないが、要地であることがよくわかる。主郭の周囲には土塁もあり、北東側の搦め手側にも堀切が残る。
非常によく整備されていて比較的軽装でも歩きやすく、駅からも近くて、戦国前期の城を味わえる貴重な遺構であった。
(平成21年1月訪問 #21)

参考文献:さとみ物語(館山市立博物館)、関連ホームページ

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