歴史の勉強

越前国  一乗谷朝倉氏遺跡

一乗谷は越前朝倉氏の本拠として有名であるが、朝倉氏がいつからここを本拠としたかは明らかでない。一乗谷は宇坂庄に属しているので、朝倉氏が宇坂庄の地頭職を得た二代高景の時代から、何らかの所縁はあったものと思われる。
美濃との国境である冠山を源とする足羽川が、山間部から福井平野に出るところで、南から合流する一乗谷川に沿った細長い谷底の狭小平地が一乗谷で、合流点に近い下城戸から約1.7km上流の上城戸に至る間を「城戸の内」と称し、朝倉当主の館や重臣・武家屋敷、町屋、寺院などが建ち並び、当主の直接権力の及ぶ地区とされている。

左:上城戸 右:下城戸城戸口

この城下への入口である上城戸と下城戸は外観・構造とも異なっていた。上城戸は高さ5m、長さ105mの土塁で内外を遮断していたとされ、一乗谷川畔に城戸口を設けていたと考えられる。
一方、下城戸は一乗谷川を挟むように濠や土塁が設けられ、城戸口は西側に枡形を配置していたとされている。この上城戸、下城戸ともその一部を見ることができる。
この城戸の外にも町屋、武家屋敷のほか、火葬場や寺院があったことが確認されているが、城戸の内が城下町にあたるとすれば、城戸の外は城下に隣接する間接統治地域といえる。
例えば城戸の外にあった含蔵寺は罪人の駆け込み寺であったとされていて、城戸の内で何らかの罪を犯しても、城戸を出てこの寺に駆け込めば罪から解放されるという、一種公界的な地でもあった。また、亡命した足利将軍義昭が起居した御所や明智館などは上城戸の外にあった。

一乗谷川 左側に朝倉館、右側に復元町並みがある

一乗谷は越前朝倉氏の安定と強勢によって発展し、とくに英林孝景以降の5代103年の間は朝倉氏の勢威が続き繁栄してきた。
しかし天正元年(1573年)8月、織田信長の越前侵攻で朝倉氏が滅亡し、一乗谷はその時に織田軍によって放火され焼失した。
その後、越前の中心は北の庄、後の福井に移り一乗谷は忘れられて水田化される。これが結果的に、良好な状態で朝倉時代の遺跡を保存することになり、昭和5年(1930年)には朝倉館跡などが国の指定史跡となり、さらに昭和40年代に入って積極的な発掘調査が開始された。
その後土地改良事業の対象地域とされたが、遺跡の重要性が県にも認められて土地改良事業は中止となり、一乗谷は公有地化されたうえで特別史跡とされた。
史跡中央を一乗谷川が流れ、川の脇を県道18号武生美山線が走っていて、一乗谷川と県道を挟んで史跡群が連なっている。その中心をなすのが朝倉館跡と復原された町並みである。
一乗谷川は流れが急で流路も安定せず、頻繁に川岸が崩れたようで、この川に沿って谷を縦断する南北道路があった。川の東側には朝倉館をはじめ譜代重臣の屋敷が固まっていた。
一方、川の西側には外様というべき在地豪族から朝倉氏の家臣となった者の屋敷や町屋があった。数珠師や檜物師、紺屋、土器作りの家と考えられる町屋の跡が発掘されている。


左:重臣屋敷跡 中:復原町並 右:町並内の武家屋敷跡


一乗谷川の西側に町並みが復元されている。復元作業は発掘された礎石の配置や状態から建物の大きさ、礎石に残る柱の痕跡や出土した柱などからその材質や加工法が判明し、そのほかの出土物などからも詳細な様子も知られ、それが復元の基礎となったという。また瓦の出土はなかったので、瓦葺の建物は存在しなかった。
そのうえに慈照寺東求堂や大仙院方丈(京都)、箱木家住宅や古井家住宅(兵庫)など現在に残る同時期の建物や洛中洛外図等の絵画を参考に具体的な建物を組み上げている。
町は道路によって規則的に区切られていた。10丈=100尺(30.3m)を単位として、その倍数で道々を区切り町割のブロックを作っていた。このブロックごとの東西道路は7〜8mと幅も広かったようだ。このほかに武家屋敷の前や屋敷の裏側をつなぐ道路は小路といわれ、3〜6mと幅も狭く曲っていたり行き止まりになっていたりする場合が多かったらしい。
「朝倉始末記」には「大橋ノ通リ」「上殿橋ノ通リ」「三輪小路」「笠間小路」などの名が見え、幹線道路、小路ともにそれぞれ名が付いていたと思われる。

左:朝倉館唐門 右:朝倉館跡、中央が主殿

朝倉館は城下のほぼ中央部東側にあり、復元町並みを出て県道と一乗谷川を渡ると、正門である唐門が建つ。朝倉館は東・北・西の三方を濠と土塁で囲み、それぞれに門が開かれていて、正門とされる唐門の位置は西の門となる。
この唐門は江戸時代に建てられたもので、この下に正門跡があるとされている。門の内部は客殿である主殿、当主の日常の生活の場である常御殿、数奇屋、台所、厩などの礎石がほとんど残っている。
中心となるのは常御殿で大きさは7間×11間で、その南側に主殿や会所など表向きの建物が建ち、付属施設として庭園や花壇があった。一方、北側には台所、厩、湯殿、蔵など日常生活に使う建物が配置されていて、建物は全部で十数棟を数える。
朝倉館の東側にある一乗城山上には、詰めの城として一乗谷城が築かれていた。山城一乗谷城からは福井平野が一望できるという。

左:湯殿跡庭園 右:諏訪館跡庭園、中央が滝副石

朝倉館の一画に取り込まれるような形で、湯殿跡庭園がある。荒々しい石組を基調とした庭園には池を配し中島や出島があり、一乗谷でもっとも古い庭園とされている。
館の約200m南方には義景夫人小少将の館と伝えられる諏訪館跡庭園があった。その中心となるのは高さ4m余りの滝副石であり、ここは城下で最も大規模かつ豪奢な庭園であった。
また朝倉館の北側には貞景が娘の為に再興した尼寺南陽寺の跡の庭園があり、この南陽寺跡庭園は足利義昭を招いて酒宴を催したところであった。
これら3庭園はかなりの部分が露出していたために、昭和5年(1930年)に国の名勝に指定され、昭和43年(1968年)から本格的な発掘調査がなされ、平成3年に国の特別名勝に指定された。
朝倉氏庭園の特徴は、近くで採取できる凝灰角礫岩の巨石が数多く使われていることで、その最大のものが滝副石である。湯殿跡庭園の水墨山水を思わせる立石群も2m内外の山石が使われている。
これら林泉庭園のほかにも枯山水庭園も確認されていて、枯山水庭園では花崗岩地帯から白川砂を取り寄せて使っている。一乗谷では茶の湯が盛んであったことがわかっており、屋敷跡からは手水構えを伴った茶庭も発掘されている。

平成19年9月に一乗谷朝倉氏遺跡を訪問したが、時間の関係で復原町並と朝倉館、庭園跡などを見れただけであったが、それだけでもすばらしい史跡であった。また、3kmほど北側のJR一乗谷駅近くに県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館があり、多くの出土物などが展示公開されている。
(平成19年9月訪問、平成19年9月初稿、平成21年9月改訂 #32)

参考文献:越前朝倉氏一乗谷(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館)、復原一乗谷(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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