歴史の勉強

上野国  平井城

    

復元された土塁

三の丸跡

復元された空堀

群馬県藤岡市西平井、上信越道藤岡ICを降りて南に向い、県道173号金井倉賀野停車線に沿って平井城址がある。公園として整備はされているものの、復元された土塁と空堀くらいしか目立つものはなく、訪れる人もそう多くはないようで、ひっそりとしているが、この城はかつて関東管領山内上杉氏の居城であり、殷賑を極めた城下であった。
その栄華も今の状態からはまったく想像できず、農地化や宅地化で遺構そのものはほとんど失われてしまっている。また平城であった平井城には、後詰の城として背後の山に平井金山城がある。

永享10年(1438年)に鎌倉公方足利持氏と関東管領山内上杉憲実が争った永享の乱が勃発した。そのときに憲実は家臣の長尾忠房に平井城を築かせたという。また、応仁元年(1467年)に上杉顕定が築城したとの説もある。
憲実は永享10年に城を築かせ、対立していた持氏から逃れるために鎌倉から平井に移城した。持氏は憲実追討の為に一色直兼を差し向けて平井城を攻め、憲実は幕府に窮状を訴えた。
六代将軍足利義教は持氏追討を命じ、後花園天皇から錦御旗と綸旨を請けて幕府軍を編成して関東に派遣し、これに呼応して平井城から憲実も出陣、持氏の軍を破る。持氏は捕虜となり幽閉され後に自害した。

その後、応仁元年に関東管領になった山内上杉顕定は平井城に入り、そのときに城を大改修した。やがて山内上杉氏に内紛が発生し、分家である扇谷上杉氏と対立する。
山内・扇谷両氏は各地で抗争するが決着はつかず、その間に相模で興った新興の後北条氏の勢力が関東を侵食しだす。永正2年(1505年)に扇谷上杉氏の実質的な降伏によって上杉の内乱は治まるが、後北条氏の勢力は抜き差しならないものとなっており、上杉氏は後北条氏と対立する。
永正4年(1507年)顕定の弟で越後守護であった上杉房能が守護代長尾為景と対立して合戦に及び敗走途中に自刃した。永正6年(1509年)顕定は養子憲房らと越後に出陣したが為景軍に敗れて自刃し、憲房は平井城に逃げ戻る。
再び山内上杉氏では家督を巡る争いが起きるが、結局享禄4年(1531年)に憲房の子の憲政が山内上杉家の当主となり関東管領となる。

天文15年(1546年)、憲政は対立していた後北条氏を攻める。扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏らとともに、その軍勢8万ともいわれ関東管領の威光をもって北条綱成が守備する河越城を囲んだ。
しかし河越夜戦で北条氏康の奇襲に敗れて上杉朝定は戦死し、憲政は平井城に逃げ戻る。権威の回復に焦った憲政は翌天文16年に強引に佐久に進出して武田晴信に大敗した。
憲政の権威は失墜し関東の国人たちは続々と北条氏のもとに奔る。天文20年(1551年)北条氏康は2万の軍勢をもって平井城を攻めた。
北条軍が大勝し、憲政は平井城に籠る。氏康は一旦兵を引き秋に再び平井城に向う。ついに抵抗をあきらめた憲政は平井城を捨て越後の長尾景虎を頼った。

平井城には憲政の嫡子龍若が残されたが、城を留守する重臣は龍若を氏康に差し出して降伏し、龍若は小田原で斬首とされ、龍若を差し出した重臣らも不忠者として磔となった。
平井城には北条長綱が置かれた。一方越後に逃れた憲政は景虎に関東管領と上杉の家督を譲り、ここに関東管領上杉景虎(のちに謙信)が誕生。
景虎は関東管領として失地回復を図り平井城を奪還する。景虎は越後に近い上野を関東攻略の前線基地とし、その拠点を厩橋(前橋)に置いた。これによって平井城の機能は厩橋に移され平井城は廃城となった。
(平成20年10月訪問 #10)

参考文献:関連ホームページ

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