歴史の勉強

播磨国  姫路城

姫路城天守群


国宝でもあり平成5年(1993年)には法隆寺とともに日本で最初の世界文化遺産に登録された姫路城に行ったのは、平成の修理が本格的に始まる前の平成21年(2009年)夏のこと。
この年は天候不順で雨が多く、梅雨明けもはっきりしなかった年だが、姫路に行ったときはよく晴れた猛暑の日で姫路駅に降りた途端に汗だく。
姫路の城は天守や櫓などがある内堀の南側にも埋門跡や車門跡などが良好な状態で残っている。駅から城に行くまでに見ておくといい。
さて駅前通りを真っ直ぐ進んで内堀に至ると架る橋は桜門橋で、その奥に建つのが桐門である。この桐門は昭和12年(1937年)に復興したもので往時とは位置も大きさも異なっている。

この桐門一帯が大手で、実際は桜門、桐一の門、桐二の門の3つの門と櫓で枡形を構成していた。桐門を入ったところが三の丸で、現在は芝生の広場だが往時は屋敷が所狭しと並んでいたという。
この広場越しに天守群を見ると惚れ惚れする美しさだ。姫路城大天守は五重六階の後期望楼型といわれるもので、東、西、乾の3つの小天守を従え、それぞれの間は渡櫓で結ばれている。トップの画像は南西から見たもので、右から大天守、西小天守、乾小天守である。
下の画像は左側が三の丸広場から望む大天守と西小天守、右の画像の大天守手前にあるのは上山里曲輪の櫓で、左側がリの一櫓、一段低くなってリのニ櫓、一番右端がチの櫓である。


三の丸広場からの天守

大天守と上山里曲輪櫓

三の丸広場の西側には武蔵野御殿跡がある。千姫の御殿の跡だ。現在でも交通の要地である姫路が、戦略上の要地として注目されたのは応仁の乱以後とされる。
それまでは播磨を領した四職家の赤松氏の目代小寺氏が守っていたが、小さな城であったという。嘉吉の変で赤松氏が没落してから山名氏に変わったが、その後に起きた応仁の乱で姫路城は再び赤松氏に奪われた。
赤松氏は小寺氏を目代に戻したが、小寺氏は御着の城に移り、姫路は黒田氏が城代となった。この黒田氏から軍師官兵衛が出て、やがて筑前福岡52万石の大大名になっていく。
信長が播磨に進出してきたときに、黒田官兵衛が迷わずに信長に臣従したのは有名な話で、最終的に毛利氏についた主の小寺氏が滅亡したのとは対照的であった。

やがて姫路城は織田氏の中国攻略の拠点となる。織田氏の中国攻略の司令官は秀吉だ。その秀吉の非凡さを見抜き、秀吉に惚れ込んだ黒田官兵衛が自身の城を本拠にと差し出したのだ。
秀吉は播磨の三木城を手始めに播磨国内を平定し、備前の宇喜多氏を味方にして毛利領に進軍し、備中高松城を水攻めにしていたときに本能寺で信長が横死する。
この報に接した秀吉は信長の死を秘して毛利氏と和睦し、中国大返しといわれる軍勢の大反転を行い姫路に戻った。ここで2日間戦備の時間を取り、京に進軍して明智光秀を討って天下人への切符を手にしたのだ。
毛利氏は以後秀吉に臣従し、戦略拠点としての姫路の重要性は失われた。姫路には秀吉の妻ねねの実兄木下家定が入ったが、その石高はわずか2万5千石であった。

再び姫路城が重要拠点となるのは関ヶ原役後である。江戸時代が大きな騒乱もなく250年もの間続いたのは、その大名政策によるところが大きく、その政策の基本となるのは転封と改易を中心とした統制にあった。
大名配置の基本は重要地を親藩と呼ばれる徳川一門や譜代大名で固め、遠隔地に外様大名を置いて、親藩・譜代と外様、あるいは外様同士を牽制させた。
とくに中四国や九州には外様の配置が多かった。広島の福島→浅野、萩の毛利、筑前の黒田、佐賀の鍋島、肥後の加藤→細川、薩摩の島津等々が並んでいた。
これら外様大名が攻めて来たときの第一の防衛拠点が姫路であった。つまり西への最前線基地である。背後には直轄地の大坂、和歌山に御三家の紀伊家、彦根に譜代筆頭の井伊家を置いてバックアップとした。

家康はこの構想の下に姫路に池田輝政を入れた。池田氏は外様ではあるが家康の二女督姫を正室とし、そのために家康の信任が篤く、関ヶ原役でも家康の勝利に大いに功績があった。
その恩賞の意味もあって姫路52万石に輝政を封じ、家康の孫である二男忠継に備前岡山28万石、三男忠雄に淡路6万石を与えた。
新田分を加えて池田一族の所領は92万石になり輝政は、姫路宰相100万石、西国将軍などと呼ばれた。姫路城が大きく変わるのはこの輝政時代からである。
秀吉期の姫路城は現在の位置に三重の天守が築かれた、その東南側のトの門が大手口であったとされる。輝政は西国将軍に相応しい城を築くために多くの財を当時、今日の壮麗な天守群を築いた。

慶長18年(1613年)の輝政は死去し、跡を嫡男利隆が継いだが、利隆は輝政の先妻の子で督姫の子ではなく、したがって家康の孫でもなかった。
しかし時は大坂の陣の直前であり、転封も出来ない。大坂の陣で利隆は活躍したのだが、その間に忠継と督姫(良生院)が相次いで死去し、大坂の陣の翌年の元和2年(1616年)には利隆も死去してしまう。
利隆の嫡男光政は8歳で家を継いだが、元和3年に因幡鳥取に移された。幼少の身に要地は預けられないというのが表向きだが、実際は家康の孫でなかったことが原因だろう。
なお、長じて光政は江戸初期の名君の一人になり、岡山に移って池田家はそこで定着する。一方、忠継の家督は弟の忠雄が継いで、のちにその子の光仲のときに鳥取の光政と交換転封となって鳥取池田家が成立定着する。

光政転封ののちに姫路に入ったのは本多忠政(15万石)で、徳川四天王のひとり本多忠勝の子である。忠政の子の忠刻の妻が千姫であった。
千姫は二代将軍秀忠の長女で、大坂の豊臣秀頼のもとに輿入れしたが、大坂の陣で城を落とされ、その後忠刻に再嫁した。その間には多くの物語があるが、忠政の15万石とは別に忠刻には10万石が与えられた。忠政は忠刻と千姫の為に三の丸と西の丸に御殿を建てた。
この御殿は秀吉が築いた伏見城の遺構を用い、金箔塗りの戸襖に武蔵野の薄を描いたことから武蔵野御殿と言われた。姫路城が輝政によって大改築され、千姫の嫁入りによってさらに華麗さが加えられたのだった。

忠刻と千姫の間には一男一女があったが、嫡子幸千代は3歳で早世し、忠刻も31歳の若さで病死、千姫は髪を下して天樹院と号し江戸に戻った。
本多氏は忠政の跡を政朝-政勝と継いで寛永16年(1639年)に大和郡山に移封され、入れ替わりに松平(奥平)忠明が18万石で入る。
以降は転封が激しく松平(奥平)氏二代、松平(越前)二代、榊原氏三代、松平(越前)直矩再封、本多氏二代、榊原氏四代、松平(越前)二代と入れ替わり、寛延2年(1749年)に上野前橋から酒井氏が入ってようやく定着する。この酒井氏は酒井忠清を出した雅楽頭系の宗家で、以後十代に渡って相続し明治に至った。

  

西の丸カの櫓

西の丸化粧櫓

西の丸櫓内(長局大戸)

菱の門

三国堀と天守群

さて。武蔵野御殿跡からいよいよ本城域に進む。本城に入るのは菱の門からだが、その手前に管理事務所があって、その背後が西の丸だ。西の丸は本多忠政時代に整えられ、化粧櫓をはじめとする櫓群が見学できる。
本丸域への入城は菱の門から入る。この門は二の丸への入口にあたり、格子の金具にも装飾が施されている。菱の門を入ったところにある堀は三国堀と呼ばれる。
姫路城は現在の天守群が建つ姫山という丘陵と、西の丸のある鷺山という丘陵を使っていて、この中間部の谷間に設けられたのが三国堀だ。
防御の役割と溜池の役割を併せ持つ堀で、池田輝政の領国が播磨、備前、淡路の三国だったことが名前の由来とされるが、堀自体は秀吉時代にあった可能性が高いという。


いの門

はの門

ロの櫓

にの門

乾小天守

水の一門と油塀

との一門

井郭櫓

大天守と西小天守

水の五門

天守内武者走と石打棚

三国堀の脇からいの門に向う。ここからい、ろ、は順に多くの門を潜ることになる。いの門を入った狭い地域が二の丸でろの門を出て右に曲って坂を上がったところが櫓門形式のはの門である。
はの門を入ったところを乾曲輪といい、正面にロの櫓が建つ。坂を上り折り返す形で進むとにの門となる。先ほどのロの櫓と結合した門で、ここを入るといよいよ本丸域になる。
正面右に乾小天守があり、その南側の水の一門を潜る。この水の一門の脇の油塀は秀吉時代に築かれたとの説もある。水の一門から大天守の北~東に曲輪を廻り込んで備前門を入ると備前丸になるが、備前門の入る手前にはとの門があって、ここが秀吉時代に大手とされていた門である。
江戸時代には搦手からの門で、一の門と二の門で枡形を組み、渡櫓で囲まれた厳重な門である。またとの門の南側、備前門の向いには井郭櫓が残る。いわゆる井戸であり、姫路城全体では33の井戸がある。備前丸は大天守の南にあたり、本丸の屋敷があったところであるが、そんなに広くない。
政庁としては用地不足であったらしく、藩政はもっぱら三の丸の屋敷で行われ、酒井氏時代には藩主も城外東屋敷に居住するなど、本丸は象徴としての存在意義しかもたなくなった。備前丸の北西から大天守に入る。その入口が水の五門であり、大天守内部を中心に見学できる。


帯郭櫓

お菊井戸

ぬの門

るの門

備前丸の東側に帯曲輪がある。帯の櫓の下を穴門で潜った曲輪は腹切丸ともいわれ、ここには帯郭櫓があが、この櫓は地上1階、地下1階の変則的な櫓である。
腹切丸から戻りりの門を潜ると上山里曲輪で、ここにはお菊の井戸がある。歌舞伎、講談、落語などで語られる皿屋敷の舞台となった井戸で、その先が城内でも最大級といわれるぬの門になる。
ぬの門は黒鉄板張りで二階建ての櫓を持つ重厚な門で、このぬの門手前の櫓群がリの一櫓、リのニ櫓、チの櫓である。ぬの門先は二の丸で、ここで折り返す形に進むと埋門形式のるの門がある。
るの門は間道として使われていた門で、この先が三国堀の南側だから、菱の門を入り右に曲がってるの門~ぬの門~りの門と進むと備前門から備前丸に行き着く。このルートが菱の門から備前丸への最短ルートである。
平成の修理は2014年(平成26年)までの予定で、この間見学が大幅に制限されるが、これだけの文化財を守るためには必要なことである。修理後に再び美しい姿を現してくれることだろう。
(平成21年8月訪問 #78)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、城郭探検倶楽部(新人物往来社)、名城を歩く・姫路城(PHP研究所)、よみがえる日本の城(学研)、姫路城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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