歴史の勉強

近江国  彦根城

国宝天守(東側から)


彦根の地は、美濃からの東山道と越前からの北国街道が交わるところであり、信長も上洛する際には、ここから船を利用して琵琶湖を行き、坂本に上陸したというから、海陸の交通の要地であった。
信長は小谷城に拠る戦国大名浅井氏を滅ぼして、この地を自領にすると佐和山に城を築き、重臣の丹羽長秀を城代とした。JR線を挟んで彦根城の反対側にあるのが佐和山である。
信長が本能寺で斃れ、秀吉の天下となっても佐和山の重要性は変わらず、堀秀政、堀尾吉晴、石田三成ら側近大名の居城となった。
とくに三成は秀吉政権の重臣であり19万石の所領を得、城もそれに相応しく、天守を持つ堅固な要塞に改修された。その三成は、周知の通り関ヶ原役に敗れて所領は没収され斬首された。

三成の旧領には上野高崎から家康の重臣井伊直政が封ぜられた。直政は佐和山城を廃して磯山への築城を計画するが、関ヶ原役での戦傷がもとで慶長6年(1601年)に病没する。
直政の跡は直継(直勝)が継いだが幼少であり、重臣協議の結果金亀山(彦根山)に城を築くことにし、家康の許しを得て最終的に決定した。
この地は西国を押える重要な拠点であり、徳川の最前線でもあった。そのために家康は彦根築城を天下普請とし、近畿の7ヶ国12大名に手伝いを命じた。

完成が急がれたために石垣の石材や門、櫓などは佐和山城、小谷城、大津城、長浜城、安土城、近江八幡城などの周辺諸城の旧材を利用した。
とくに天守は大津城の5重4階ののものを移築し3重3階に改修した。大津城は関ヶ原役の際に西軍の大軍に囲まれながらもよく持ちこたえた縁起のよい天守であった。
天秤櫓は長浜城から、西の丸三重櫓は小谷城から、佐和口多門櫓は佐和山城から移築されたと伝承され、本丸太鼓門もどこからの城の城門であったとされる。
これらの突貫工事を持って城の完成は急がれたが、湖畔の湿地帯の為に難工事となり、主要部の完成は慶長11年(1606年)、その後も工事が続けられて全体の完成まで20年を費やしたという。
城主は元和元年(1615年)に病弱であった直継の代わり弟の直孝が襲封し、以後明治まで井伊氏の城であった。井伊氏はその後加増により30万石という譜代最高の石高を誇り、幕府からの預り舞5万石をあわせて35万石の格式であった。


佐和口続櫓

佐和口二重櫓

佐和口二重櫓内部

馬屋

馬屋内部

彦根城訪問は平成21年夏、梅雨明けなしの地方も多かった異常な年であったが、幸いに天気は良く暑い日であった。彦根駅から城に向かって歩くと10分ほどで堀端に達する。ここからいろは松と呼ぶ松並木を歩くと佐和口門となる。
佐和口門外のいろは松のところで参勤交代の殿様を重臣が並んで見送ったり、出迎えたりしたという。佐和口は南の京橋口、西の船町口、北の長橋口とともに中堀に開く4つの門のひとつで、城の表門に通ずる位置にあり、二重櫓、多門櫓が現存し続櫓が復元されている。
佐和口の枡形を抜けると左手には馬屋が残る。この馬屋は全国で唯一残る江戸時代の城郭内馬屋で、21頭の馬を収容することができた。夏休み特別公開期間中で馬屋と二重櫓の内部が公開されていた。
ここまでは無料で、馬屋の先で内堀を渡ると表門口があり入場券を購入することになる。入場券売場の向いが江戸時代には表御殿があったところで、昭和62年に御殿は復元されて博物館になっている。

  

廊下橋(左が天秤櫓)

天秤櫓(手前が廊下橋)

入場券を買って天守への坂を登ると廊下橋の下に出る。本丸域を守る堀切の底になるわけで、非常時には橋を切り落として両側から挟撃する。近世城郭では曲輪間に堀切が設けられることは珍しいとされる。
廊下橋は、その名の通りにかつては壁と屋根がついていたが、五代藩主直興が屋根を取り払い壁を壊したという。直興は大老にも就任した人物であり子沢山であったが、男子が次々に夭折した。調べてみると夭折した男子はすべて廊下橋を渡っていたために、壁や屋根を破却させたらしい。
廊下橋の下を潜り左に回りこむと鐘の丸に出る。時鐘があったことから名付けられた曲輪で、ここから廊下橋を渡ると天秤櫓となる。
この廊下橋から天秤櫓にかけては彦根城の見所のひとつで、天秤櫓側の石垣は牛蒡積(小口より奥行きが長い野面積)、鐘の丸側は切り石積と異なり、天秤櫓も左側の二重櫓は妻側を、右側の二重櫓は平側を見せる。


太鼓門櫓

時鐘

天守

西の丸三重櫓

西の丸三重櫓内部

天秤櫓の城門を入ると太鼓丸曲輪で、坂を登ると正面に太鼓門櫓が見える。その手前に時鐘がある。時鐘はもともと鐘の丸にあったが、城下に音が届きにくかったためにここに移されたという。この鐘は弘化元年(1844年)十二代藩主直亮のときのものだそうだ。
太鼓門櫓の背面は柱の間に高欄を渡して廊下としているが、これは櫓にはひじょうに珍しい例で、かつては彦根寺山門の移築と伝えられたが、解体修理により否定され、どこかの城の城門が移築されたものと考えられている。
太鼓門を潜ると本丸域で、思いのほか狭い本丸に天守が聳えると言いたいが、先に書いたように築城を急いだ関係で、縁起のいい大津城の天守を移築して改修した三層の少しずんぐりとした印象の天守である。
天守には付櫓と多門櫓が付属し、外観は入母屋破風、切妻破風、唐破風と多様な破風で飾られている。最上階の廻縁と高欄は装飾で外周を廻ることはできない。また三重目の頂部を曲線とした華頭窓である。天守へは多門櫓から入退場するが、その正面にあるのは御金蔵として建てられたものである。
天守の背後に広がるのが西の丸である。この西の丸の西北にある三重櫓と多門櫓は伝承では小谷城からの移築と伝えられているが、解体修理の際には否定された。
太鼓門櫓、西の丸三重櫓も非公開であるが、夏休みの為に特別公開されていた。


玄宮園からの天守

腰巻石垣・鉢巻石垣

大手門

西郷家長屋門

雁木

本丸域の後は黒門から出て楽々園、玄宮園に入る。楽々園は五代藩主直興により建てられた下屋敷で欅御殿と呼ばれ、その庭園部分が玄宮園と呼ばれる。
さらに堀に沿って進み、大手門から外郭に向う。彦根城の石垣は総石垣となっているのは虎口部分だけで、内城域は鉢巻石垣、腰巻石垣であった。石垣の上に土塁を築き、土塁の上に石垣を築く方法で、下のほうを腰巻、上のほうを鉢巻に例え、これは江戸城にも共通する。
彦根城の大手門は南側の京橋口にあり、城内でももっとも防備が強固であった。多門櫓から横矢が掛る枡形になっていた。大手門から京橋口を出る手前には西郷家長屋門が残る。西郷家は3500石の家老職で京橋口を守備していた。
その近くに雁木も残る。雁木はほかにも各所に残っている。戦闘の際に塁壁を登りやすくするために軍備である。ほかにも屏風折れ石垣や竪堀、登り石垣などの軍備も見られる。
彦根城は天守だけでなく御殿、馬屋、蔵、長屋などさまざまな建物が現存しており、規模では劣るものの、多様さでは姫路城を凌ぐ城郭建築の宝庫である。
(平成21年8月訪問 #65)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、城郭探検倶楽部(新人物往来社)、名城を歩く・彦根城(PHP研究所)、よみがえる日本の城(学研)、彦根城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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