歴史の勉強

遠江国  浜松城

    

写真1:天守台と模擬天守

写真2:天守の穴蔵井戸

写真3:野面積み石垣

江戸後期、天保の改革で知られる水野忠邦は、唐津藩主から浜松への転封を強く願った。忠邦は野心家であり、幕府の要職、願わくば老中になって思う存分自身の政策を推し進めたかったのだ。
しかし、唐津藩は長崎警備があるために幕府の要職にはつけない。一方、浜松は「はま松は 出世城なり 初松魚」(松島十湖)といわれるように、ここに封じられた大名は幕府の要職を得ること多数であった。
この忠邦の国替願望に対し家臣はこぞって大反対。唐津は肥沃な土地で、表高は6万石ながら実際には25万石もの収穫があったのに、浜松では同じ6万石でも15万石程度しかない。表面上は同石高ながら10万石もの減収になってしまう。
家老が諫死までしたが、忠邦は国替に奔走し、ついに浜松に転封となる。その後、老中となったものの天保の改革に失敗して強制隠居、謹慎のうえ水野家は左遷地である出羽山形に移された。
浜松藩主は江戸期を通じてすべて譜代大名で占められ、25人の藩主のうち老中6人、京都所司代2人、大坂城代2人、寺社奉行4人など多くの要職者を出している。
家康も三河岡崎からこの浜松、さらに駿府、江戸と居城を移すたびに実力者としてその地位を高めていき、ついに天下人となった。その故もあって出世城といわれるようになったのだろう。

浜松城は、駿河遠江の大名今川氏が桶狭間の戦いで勢力を大きく衰退させ、それまで今川氏家の属将だった家康が独立して三河を統一し、やがて隣国遠江に進出して、その拠点としてまた自らの居城として築いたものである。
今川氏の時代、この地には曳馬城と呼ばれる小規模な城郭があったが、家康はその西側の台地の先端を利用して新城を築き、付近にあった集落の名を城の名にしたとする。
最高所に天守曲輪、その東側に一段下がって本丸、さらに下がって二の丸、その東から南にかけて三の丸という配置で、天守の南から西には空堀を置いた。また北側は険しい谷であったという。
このころの家康は武田信玄対策に腐心していた。甲斐の武田氏は今川氏衰退の後に南下政策をとって駿河に侵入、さらに西方の遠江を狙い、それは必然的に家康との衝突を意味していた。
戦国最強といわれた武田氏が相手では、家康単独はおろか同盟している織田信長を頼んでもかなわない。そのために東から侵入してくる武田軍への備えを重視し、東側からの防御を重点的に考えた縄張りだという。

浜松築城からほどなくして、武田信玄が侵攻してきた。元亀2年(1571年)のことであったが、信玄は家康など眼中になきが如く、浜松城を無視してその北側を西に向おうとした。
この軍をやり過ごすようでは戦国武将として失格であり、場合によっては徳川家は空中分解してしまう。同じ分解するなら一戦してからと考えたかどうかはしらないが、果敢にも家康は城を出て戦いを挑む。三方ヶ原の戦いである。
この戦いで家康は完膚なきまでに敗れ、戦場から騎馬で命からがら城に逃げ込んだ。そのときに恐怖の為に馬の鞍に脱糞したとする話は有名である。
この戦いは家康の唯一の敗戦とされるが、家康はその後も浜松城を改修し、防御を強化して、天正14年(1586年)に駿府に移るまで居城とした。
すでに武田氏は滅んでいた。信玄は家康を破ったのちに西上途中の伊那駒場で死去、跡を継いだ勝頼は設楽ヶ原で織田徳川連合軍に今度は完膚なきまでに敗れ、滅亡への坂を転がり落ちていったのだった。

現在の浜松城は天守曲輪と本丸が公園として整備され、天守台には模擬天守が建つ。天守は予算不足のために表側だけに縮小して建てられており、写真1のように天守台が大きく余っている。
天守台は北東と南東に張り出した菱形に近い形をしていており、東側が表である。天守は江戸時代初期には失われていたらしく、その後も城主の入れ替わりが激しかったために一度も再建されておらず、本丸南東の菱櫓が天守代用とされたようだ。
天守の前には銀明水と呼ばれる井戸があるほか、写真2のように天守内部地下穴蔵にも籠城を想定して、井戸がある。城内には全部で10本ほどの井戸が掘られていたという。
また、浜松城の石垣は、自然石をそのまま積み上げた野面積みで、隅の部分は長短の石を交互に積む算木積みになっている。写真3は天守曲輪を囲む石垣で、江戸期にはこのうえに土塀があった。
野面積みの石垣といい、籠城を想定した井戸といい、東側重視の縄張りといい、浜松城はきわめて実戦を重視した城なのである。
(平成20年10月訪問 #43)

参考文献:城郭みどころ事典・東国編(東京堂出版)、よみがえる日本の城(学研)、浜松城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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