歴史の勉強

近江国  八幡山城

    

秀次居館跡

本丸石垣

八幡堀

滋賀県近江八幡市の琵琶湖畔に近い位置にある八幡山城は、天正13年(1585年)に羽柴秀次によって築かれた城である。
天正10年(1582年)の本能寺の変により織田信長が横死し、その後継者となったのは豊臣秀吉であった。秀吉は翌天正11年の賤ヶ岳の戦いでライバルの柴田勝家に勝利して地位を固めると、天正13年には紀州征伐、四国征伐を行った。
その両征伐で活躍した秀吉の甥秀次に、論功行賞の意味もあって近江八幡43万石(うち23万石は宿老分)が与えられた。
秀次は秀吉の姉日秀の子で、秀吉の養子となった。秀吉には親類縁者が少なかったので重用された。秀次が八幡山にいたのは5年間で、天正18年(1590年)に尾張清州100万石の太守となった。
秀次は天正19年(1591年)には関白となったが、実子ができた秀吉に疎まれ、文禄4年(1595年)には自害に追い込まれる悲劇的な人物である。
一方、秀次移封後の八幡山には京極高次が2万8千石で入るが、文禄4年に大津に移され築城からわずか10年ほどで八幡山城は廃城となった。

城は鶴が羽を広げたような形から鶴翼山と名付けられた、標高283mの独立丘の南側に作られた。もっとも築城当時は東西は琵琶湖の内湖であり、半島状の地形だったようだ。
北と東西を湖の囲まれていたために城下町は南側に広がり、これが現在の近江八幡市街である。城の南側には防御施設として湖に直結する堀が設けられ、現在でも残っていて八幡堀と呼ばれている。
堀の北側、城の南麓の谷間となった部分には居館があった。東西300m、南北100mの規模で数段の石垣によって築かれ、下段には家臣の屋敷があったと推定され、最上段が秀次の居館跡である。
近江八幡市街から車で行くと八幡堀を渡り図書館脇からロープウェイの駅に向かうが、図書館脇から八幡公園に上がる階段がある。上がったところが居館跡の下段であり、石垣を見ることができる。
竹林の中を上がっていくと秀次居館跡の枡形虎口に出る。この付近の石垣は高石垣で、隅部分は写真のように算木積みである。

八幡山城は山麓の居館部分と頂上の山城部分からなる城である。居館部分は平時の生活空間であり、山城部分は戦時の防御空間であり籠城などの詰めの城でもあった。この形態はまさに戦国期の城であり、築城年代からいえば珍しい形態といえる。
これは築城が小牧・長久手の戦いの翌年であり、まだ秀吉と家康の間が戦時であったことから、この城が防衛線として位置づけられていたことによるようだ。
山城部分にはロープウェイで登る。登るにしたがって眼下に市街地のパノラマが広がり、安土山や観音寺城のある繖山(きぬがさやま)が望める。
ロープウェイの山上駅から出たところが二の丸になり、そのすぐ上部が本丸である。本丸には階段を上がっていくが、本丸下を一周する遊歩道があり、西の丸、出丸(立入禁止であった)、北の丸を巡ることができる。
西の丸からは琵琶湖が北の丸からは安土山や繖山が指呼の間に見えるほか、本丸下の石垣がよく残っている。遊歩道部分は帯曲輪の跡でもある。
本丸部分は瑞龍寺となっており、この寺の門が本丸虎口跡である。瑞龍寺は、秀次の母である日秀が開基した寺で、昭和38年(1963年)に京都からこの地に移ってきた。
(平成25年11月訪問 #96)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、東京近郊の名城・古城(PHP研究所)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ関連ホームページ

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