歴史の勉強

武蔵国  鉢形城

    

復元四脚門

復元石積土塁

空堀

大手脇水堀

秩父から流れ下った荒川は、関東平野の出る位置で深沢川と合流するが、合流点は両河川が渓谷となり断崖絶壁となっている。そこに築かれた城が鉢形城である。鉢形城は戦国時代の城であり、関東の戦国大名後北条氏の滅亡とともに廃城となった。
昭和7年に国の史跡に指定され、平成18年には日本百名城にも選ばれ、現在は鉢形城公園として整備され平成16年に開園し、園内には鉢形城歴史館も建てられている。

鉢形城を訪れたのは平成22年5月のこと、寄居駅より荒川を正喜橋で渡り、笹曲輪より公園内に入った。ここから荒川に沿って、その断崖上に御殿曲輪や本曲輪があった。
比較的、中世城郭的な雰囲気が残っており、土塁なども保存されている。御殿曲輪跡と本曲輪跡の間を県道が走っており、この道を歩いていくと二の曲輪から三の曲輪に至る。
二の輪曲輪には北条系城郭の特徴である角馬出があり、二の曲輪と三の曲輪の間にある空堀には、これも北条系城郭によくみられる畝が残る。

三の曲輪には復元四脚門が建つ。発掘された礎石から、四脚門と想定して「洛中洛外図屏風」に描かれた細川管領邸の門を参考にして復元された。
この四脚門の内側には石積土塁が復元されている。土塁の表面に川原石を階段状に積み上げたもので、数ヶ所に階段を設けて、戦時には兵が土塁上から敵を迎撃した。
三の曲輪にはほかにも柵や掘立柱建物、池、石組の排水溝などが復元されている。四脚門の先のJR八高線の踏切近くが大手で、水堀が復元されている。大手門付近は水堀と石積土塁で守っていたようだ。

築城がいつかは不明だが、長尾景春が築城したとされる。景春は関東管領山内上杉顕定の家臣で、文明8年(1476年)6月に鉢形城に拠って顕定に叛旗を翻した。
翌文明9年に景春は山内上杉顕定と扇谷上杉定正の連合軍を破り、上杉顕定は上野国那波荘へ退いた。その後、定正の家宰太田道灌が各地で蜂起した景春党を制して、文明10年(1478年)には鉢形城を落し、上杉顕定が入城した。
一方、敗れた景春は秩父に逃れ、その後も抵抗を繰り返したものの、太田道灌に抑えられて景春の乱は終息し、鉢形城はしばらく上杉顕定の城となった。

上杉顕定はその後上杉定正と対立し、須賀谷原や高見原で戦った。永正7年(1510年)に顕定は越後で長尾為景に討たれ、その跡を顕実が継いで鉢形城に入った。
しかし旧臣長尾景長が長尾為景らと結んで鉢形城を攻め陥し、顕実に代って山内上杉憲房が城主となった。憲房は顕定の養子で、山内上杉家の家督を顕実と争っていた。
やがて後北条氏が関東各地に侵攻をはじめ、天文15年(1546年)に山内上杉憲政(憲房の子)と扇谷上杉朝定の連合軍は、河越において北条軍の前に大敗北を喫した。世に言う河越夜戦である。

このころ鉢形城は山内上杉家の家老藤田康邦が守っていたが、河越野戦での敗北後、北条氏康の子氏邦に娘を嫁がせて、家督を譲った。氏邦は鉢形城を拠点とした。
この地は北条、甲斐の武田、越後の上杉三氏による戦いの場となり、永禄12年(1569年)には武田信玄が、天正2年(1574年)には上杉謙信が、それぞれ鉢形城に攻め寄せた。
天正6年(1578年)に謙信が没して上杉氏には家督争い起こり、一方武田氏は天正10年(1582年)に滅び、鉢形城は氏邦の支配下で一時的に落ち着いた。

しかし天正18年(1590年)の秀吉による北条征伐が始まると、一気に落城に向かう。秀吉は大軍で難攻不落を誇る堅城小田原城を包囲し、一方で周辺の北条方諸城を次々と攻略した。
前田利家、上杉景勝、本多忠勝らの北国軍は上野国に侵攻し、松井田城、国峰城、箕輪城、厩橋城などを陥落させ、さらに松山城、河越城を陥し鉢形城を包囲した。
氏邦は3千5百の兵で籠城したが、秀吉の督戦を受けた北国軍は猛攻を行い、同年6月14日に氏邦は降伏し城は落ちた。氏邦は前田利家に預けられ、鉢形城は廃された。
(平成22年5月訪問 #109)

参考文献:鉢形城指南(鉢形城歴史館)、鉢形城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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