歴史の勉強

美濃国  岐阜城

    

模擬天守

岐阜城より信長居館跡を望む
川は長良川、その後方に鷺山

岐阜の市街地からは金華山とその頂に聳える岐阜城がよく見える。城下町でこれほど目立つ城も珍しく、岐阜のランドマークになっているが、岐阜城が本格的な城郭として使われた期間は意外と短かかった。
斉藤道三にによって天文21年(1552年)ごろに体裁が整えられ、慶長5年(1600年)の関ヶ原役の際、城主織田秀信は西軍に与して落城の憂き目にあい、翌慶長6年に廃城となったから、本格的城郭として存在したのはわずか50年足らずであった。
岐阜城は古名を井ノ口城といい、また城山の名をとって稲葉山城とも呼ばれる。稲葉山は現在では金華山と呼ばれ、また古く井ノ口といった地名を岐阜としたのは織田信長であった。
信長が美濃を攻略したときに本拠を置き、同時に中国の周王朝が岐山より起ったことに由来して岐阜(阜は丘の意味)と改名した。

城は古く鎌倉時代に二階堂行政が築いたのが最初であるといわれている。東国の幕府が西国を警戒して、古来からの不破の関の地を扼する位置にある稲葉山に城を築いたとするものだが、これは定かではない。城とはいえ簡易な砦程度であっただろう。
本格的な城郭としたのは美濃の蝮といわれた斉藤道三であった。道三は周知のように戦国の申し子のような男で、京都の油売りから身を起こし、権謀術数を駆使して美濃の戦国大名となった。
司馬遼太郎は国盗り物語でその道三の国盗りを描いている。もっとも最近の研究では道三の国盗りは道三一代ではなく、父親の長井新左衛門尉と二代で行ったものというのが有力になってきている。
どちらにしても道三はあくが強く、かつ物語性に富み、一方で悪役の代表のような男であった。

道三はやがて嫡子義龍に家督を譲って隠居し、長良川を挟んで稲葉山城と向かい合う鷺山に隠居する。もっとも稲葉山は329m、鷺山は68mだから向かい合うといっても一方的に稲葉山から見下ろされる格好だった。
さて、義龍は道三の子と信じていたが、実はそうではなく先の守護土岐頼芸の子であった。これも真偽のほどはわからないが、義龍はその話を聞かされ道三と義絶し道三を攻めた。
土岐頼芸は道三に殺されたのだから、親の敵というわけである。道三には人望まるでなく味方する士も少なくて義龍に敗れる。稲葉山は義龍の城となるが病死し、さらにその子龍興のときに織田信長に落とされた。
信長は道三の女婿であり、弔い合戦であった。稲葉山城は暫く信長の拠点となり、岐阜と改名したのもこの時である。

やがて信長は上洛して天下に号令するようになり、岐阜から琵琶湖畔の安土に新城を建てて移り、岐阜は長男の信忠に譲られる。
ところが本能寺の変により信忠は信長とともに斃れ、その後は信長三男の信孝が城主となった。しかし信孝も1年で秀吉に倒され、岐阜は秀吉の臣となった池田元助に与えられた。
元助が小牧・長久手役で戦死後はその子輝政が継ぎ、輝政移封ののちは羽柴秀勝が、秀勝が朝鮮で没すると織田秀信が城主となった。
秀信は信忠の子で幼名を三法師という。したがって信長の孫であり、世が世なら天下に号令する立場であった。事実、信長死去後の後継者選びの場であった清洲会議では、秀吉は三法師が正当な信長の後継であると大見得をきった。
しかし、その後は泣かず飛ばずで岐阜12万石の城主で満足せねばならなかった。それが不満であったのか、関ヶ原の際に西軍から濃尾両国の好餌で誘われて西軍に属した。
関ヶ原の手前に位置する岐阜城は東軍の標的となり、前哨戦で東軍の猛攻を受けて落城、城主秀信は高野山に上りそこで狂死してしまう。

関ヶ原後に岐阜は廃城となり、その麓加納に加納城が築かれて奥平氏が入った。このときに天守などは加納城に移築されている。
岐阜城は道三が子の義龍に殺され、義龍は病死であったが伝染病であったといい、次の龍興は信長に放り出された。織田氏に代わってから信長と信忠は本能寺で斃れ、池田元助は戦死、羽柴秀勝は朝鮮で死んだが、その死は奇怪なものであったといわれ(毒殺説)、最後の城主秀信は落城後に狂死した。
つまり代々の城主は碌な死に方をしていない。唯一、池田輝政だけが終わりを全うしている。したがって不吉な城というイメージがあり、それが廃城の理由かもしれない。

現在城址には復興天守が建つが、復興天守も二代目である。初代の復興天守は明治43年(1910年)に建てられた我が国最初の観光目的の天守であったが、昭和18年(1943年)に焼失し、昭和31年(1956年)に現在の天守が二代目復興天守として造られた。
金華山はやせ尾根であるために曲輪も小規模なものが階段状に連続していたと考えられている。信長は山麓に居館を営み、現在その発掘が行われている。
宣教師ルイス・フロイスが永禄12年(1569年)に訪れてその威容を記述しているが、それによれば居館は巨石に取り囲まれ、庭に劇場風の建物を擁し、4階建ての宮殿の1階は絵画で飾られ、3階と4階からは全市が展望できたとある。おそらく楼閣建築であったとされている。
(平成19年9月訪問 #7)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、探訪日本の城(小学館)、日本名城伝(海音寺潮五郎・文春文庫)、歴史読本・歴史と旅各誌、岐阜城パンフレット、関連ホームページ

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