歴史の勉強

遠江国  二俣城

    

本丸への喰い違い虎口

本丸西側にある天守台

大手虎口

水の手曲輪跡

二俣城は静岡県天竜市の最南部、天竜川が大きく蛇行する地点に築かれた城であった。築城時期は明らかではないが、慶長5年(1600年)に廃城となるまで二俣城のある城山の南側が天竜川とその支流の二俣川の合流点であった。
二俣川を挟んで対岸の本城山には付城として鳥羽山城があり、二俣城は鳥羽山城と連携して機能したと考えられている。
「遠江国風土記伝」によれば文亀年間(1501~3年)に二俣昌長により築かれたとされ、「今川記」の瀬名系図では文明6年(1474年)今川貞延の子の一秀の二俣在城を記録している。現在、一秀の在城については確実視されている。
また、戦国時代のはじめごろ遠江を巡って今川氏と斯波氏が争い、今川氏が拠点とすべく二俣に城を築いたが、その城は山城ではなく平坦地にあり、今川氏に属した松井氏が現在の位置に城を移して拠点としたとの説もある。

川の合流点に突き出したような小山が城山で、蜷原台地と呼ばれる台地の先端部にあたる。台地の標高は約40m、本丸は約80mであるため比高は約40mとなる。
その城山を階段状にして北から南に外曲輪・北曲輪・本丸・二の丸・蔵屋敷・南曲輪を配置した連郭式の城であった。東・西・南の三方が川であり、台地が川に落ち込んで断崖を形成していたために要害であったが、水の確保が難点であり、水の手櫓を設けて川から水を汲み上げていた。これが二俣城の弱点であった。
鳥羽山城は天正3年(1575年)6月に築城されたという記録があるだけであったが、その後の発掘調査により曲輪や門跡のほか安土桃山時代の形式の庭園や染付、天目茶碗なども発掘されている。
このことから戦国期には二俣城の付城であったが、その後庭園などを含む大規模な再築城が行われたとの説もある。

二俣城は信州から遠州への入口に位置し、この城を抜けて南下すれば遠州各地へ、気賀から姫街道を使えば浜名湖東方から三河へ進出できるために、交通の要衝であった。
甲斐の武田信玄が信州を制圧し上洛を狙うと、二俣城がにわかに脚光を浴びる。すでに駿河の今川氏は滅亡し、遠江は家康の所領で家康は遠州浜松を居城としていた。
家康は武田に備える最前線である二俣城を大改修してその侵攻に備え、元亀3年(1572年)以降は徳川氏と武田氏の攻防が二俣城を巡って繰り広げられた。
元亀3年に武田信玄が上洛を目指し、武田勝頼が二俣城を攻めた。当時の城代は中根正照で城の堅固さもあってよく守っていた。
しかし弱点である水の手櫓を発見され、武田方は天竜川に大量のいかだを流して水の手櫓を破壊し、水を失って落城したという。

武田軍はその後遠州に入り、家康は浜松城を出て三方ヶ原の戦いが起き家康は大敗する。しかし信玄が病気になり、やがて死去し武田軍は上洛を中止し甲斐に戻る。これにより家康も信長も滅亡を免れた。
二俣城は信濃先方衆の依田信蕃が守将として入り、その後の家康軍の攻撃を凌いだ。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで武田軍は壊滅的な打撃を受け、大勝した信長・家康軍は武田への反攻を開始した。
家康は早くも翌6月に二俣城を包囲するが城兵はよく耐えた。しかし武田方の劣勢は明らかで、同年12月に開城、家康は重臣の大久保忠世を城主に入れた。
天正18年(1590年)に家康が関東に移ると、代って堀尾吉晴が浜松城主となり二俣城はその支城となり吉晴弟の宗光が城代となった。鳥羽山城の再築城は、この堀尾時代に行われたのではないかとされている。
関ヶ原役で東軍に与した堀尾氏は戦後出雲松江に加増転封となり同時に二俣城も廃城となった。

二俣城へは城山の途中まで狭い道ながら車で登れ、そこから本丸に向う。喰い違い虎口を経て本丸に入ると芝生の公園化され、その西側には天守台が残る。天守台石垣の隅角部は文禄・慶長の特徴である算木積で、堀尾氏時代の改修とされる。
本丸内は二段となっていて、公園化された本丸跡の南側に石垣と虎口を設けて一段低い位置にも本丸が広がる。その先は二の丸で二の丸東側に大手の虎口がある。また二の丸の西側から水の手櫓方面へ遊歩道が延びている。
現在二俣川は流路を変えて天竜市街を挟んで城の反対側を流れているために、遊歩道をそのまま進めば鳥羽山城址に達する。
なお、天正7年(1578年)に家康の嫡男信康が信長から自刃を強制され、果てたのもこの二俣城であった。
(平成20年10月訪問 #17)

参考文献:戦国の堅城(学研)、よみがえる日本の城(学研)、関連ホームページ

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