歴史の勉強

陸奥国  船岡城

    

樅の木

観音様

柴田城、船岡要害、四保館などの別名がある船岡城は、宮城県柴田郡柴田町にある山城で、眼下を白石川が流れる。白石川を挟んだ対岸に韮神山があり、城のあるのが四保山という。
この2つの山は100m前後と高さはそれほどないが、白石川とその南を行く陸羽街道を扼すように聳える。現在はこの隘路を国道4号線、白石川、JR東北線、陸羽街道(県道50号線)が並んで通う。つまり交通の要地を押えるように城が築かれたのだ。
鎌倉時代の正治2年(1200年)頃に芝田次郎が居城し、源頼朝の命を受けた宮城家業に攻め滅ぼされたと吾妻鏡に記されているというから、そうとう古くから城としてあったようだが、その後はどうなっていたのかはわからない。

次に登場するのは天文年間で、伊達氏の臣の柴田氏の祖である四保但馬定朝の居城となったようだ。四保氏は二代の宗義のときに柴田氏に改めたようだが、柴田氏は文禄2年(1593年)に桑折に移り、この城は屋代勘解由景頼が入った。
さらに元和元年(1615年)原田甲斐宗資が入った。
寛文11年(1671年)に有名な伊達騒動により原田一族は滅亡し、柴田宗意が入り以後明治まで柴田氏の居城となった。
伊達騒動といえば山本周五郎氏の小説「樅の木は残った」であるが、今この城址でもっとも著名なのは「樅の木」であろう。現在聳えているのは、三代目か四代目の木だそうだ。

樅の木以外には、これといって何もない。山の中腹にやたら広い駐車場があって、そこから急勾配の坂道を登る。これがかなりきつい。
途中脇道があって、それを入っていくと原田甲斐と柴田外記の供養塔が並んである。伊達騒動のクライマックスである酒井忠清の屋敷での原田甲斐と伊達安芸の対決場面で、原田甲斐が伊達安芸を斬り、その甲斐を斬ったのが外記だ。その2人の供養塔が並べられている。
戻って再び急坂を上ると山頂になるが、ここには巨大な平和観音像が建っている。狭い山頂部を歩くと曲輪跡や土塁跡とも思えるところはあるにはあるが、遺構かどうかははっきりしない。

徳川幕府により一国一城令が出され多くの城が破却されたのは周知のことであるが、例外も多数あった。仙台藩では藩内に多数の城を持っていた。
ただし幕府をはばかって城とはいわずに要害といった。船岡もその一つであったが、実際は城と何ら変らなかったし、小大名の陣屋など比べ物にならないくらいに堅固であった。
その城址全体が公園化され、その名も船岡城址公園というのだが、城址らしい整備はまったくされていないのが現状だ。
有名なのは桜で、その数は約1000本という。花見の時期には大賑いだそうだ。坂がきついために駐車場から山頂近くまでスロープカーがあるが、これは花見の時期の季節運行で、普段は動いていない。
(平成22年9月訪問 #59)

参考文献:歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

城郭訪問録の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -