歴史の勉強

陸奥国  福島城

    

大仏城宝塔

土塁

陸奥国福島は江戸時代には長く板倉氏3万石の城下町であった。譜代大名板倉氏は、江戸時代初期に京都所司代などを勤めた板倉勝重の二男重昌に始まる分家の系統で、四代重寛が元禄15年(1702年)に信濃坂木から転封され、以後幕末まで170年近く藩主を承継した。
重寛の父の三代重種は老中を勤めていたが、将軍綱吉の後継を巡って水戸光圀と対立し、さらに自身の子の重寛と甥の重宣の間に家督争いが起き、これらのことから天和元年(1681年)に老中を罷免され、蟄居を命ぜられた。同時に岩槻6万石から坂木5万石に減転封された。
重種は所要の返上を申し出たが、祖父重昌の功により重種に3万石、重宣に2万石(上総高滝)が与えられ、重種は元禄に入って福島に移された。

板倉氏の前の福島藩主は堀田氏であった。この堀田氏は綱吉の擁立に功績のあった堀田正俊の系統であったが、のちに綱吉に疎まれ、正俊の跡の正仲が下総古河より転封された。
これらを見ても明らかなように、福島は棚倉などと同じように左遷地であった。堀田氏は10万石であったが、実高は及ばず、そのために家臣の知行や扶持を減じ、農民からの収奪は過酷であったという。
さて、その福島城であるが、いつごろ築城されたかはわかっていない。一説には応永20年(1413年)に伊達持宗が鎌倉公方に対して反乱を起こした時に立て籠もったとされる大仏城が、のちの福島城であったといわれる。

大仏は杉目と名を改められたが、この付近を支配した伊達氏の一城砦にすぎなかったようだ。永禄7年(1564年)に伊達晴宗(政宗の祖父)が隠居した際に、ここを隠居城とした。
晴宗の死去後はその夫人と、末子の直宗が居したというから、どちらにしても重要な城ではなかったようだ。やがて秀吉による奥州仕置で、福島を含む信夫郡一帯は蒲生氏郷に与えられ、木村吉清が城主となった。福島と名を改めたのが吉清であった。
氏郷死去後は上杉景勝領となり、福島城には本庄繁長が城代として入った。関ヶ原役で上杉氏が米沢に減転封されてのちは天領や本多氏領を経て、堀田氏、板倉氏と続く。戊辰戦争では福島藩は奥羽列藩同盟の一員であったが、二本松城の落城を見て福島城も降伏し、城は西軍に引き渡されている。

福島城の跡は県庁をはじめとする官庁街となり、遺構はまったくといっていいほど残っていない。県庁の駐車場が本丸御殿跡であり、大手門は県庁正面の道路上の警察署前あたりにあった。
本丸の南東以外は堀が囲み、堀のない南東部は阿武隈川に面していた。つまり本丸は内堀と阿武隈川で囲んでいた。南側の堀と阿武隈川の間には二の丸庭園があった。
この庭園跡が現在の紅葉山公園であり、現在はわずかながら土塁が残り、大仏城の出土品である宝塔も展示されている。一方、城の西、北、東には二の丸、三の丸があり外堀が囲んでいたが、現在はその痕跡すら残っていない。
(平成21年9月訪問 #104)

参考文献:関連ホームページ

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