歴史の勉強

丹波国  福知山城

    

復興された大天守

銅門番所

石垣に転用された墓石

豊磐ノ井戸

福知山という地名は、明智光秀によって名付けられた。光秀は織田信長に丹波平定を命じられる。このころの丹波は戦国大名波多野氏の支配下にあり、現在の福知山の地には横山城が築かれて塩見信房が守護していた。
信房は信濃小笠原氏の末裔とされる。信房の二代前の小笠原頼勝が、福知山盆地のほぼ中央にある横山と呼ばれた丘陵に空堀と土塁だけの簡素な城を築き、のちに塩見頼勝と改名。頼勝の跡は頼氏、信房と続いた。
天正7年(1579年)に頼房は光秀によって城を落とされて自害し、丹波の平定なった光秀には丹波一国が与えられる。光秀は横山城を大改修して福知山と名付けた。
その名は和泉式部の歌「丹波なる 吹風(ふくち)の山のもみじ葉は 散らぬ先より 散るかとぞおもう」から摂られたといい、当時は福智山と書いた。智の字は明智の智ともいう。
また、富士山の別名から摂ったという説もある。智の字が知に改められたのは、享保13年(1728年)この地の藩主であった朽木氏によってである。

光秀は福知山城をそれまでの土塁と空堀の城から、由良川と土師川を天然堀として活用して由良川に突き出た台地の先端部に天守を築き、さらに石垣を用いた城に改修する。
石垣の城は天正4年(1576年)に信長の安土築城によって本格化し、信長の重臣の一人であった光秀もこれに習ったのだろう。だが、光秀クラスの武将には、そう簡単に石が集められない。そこで領内にあった供養塔や墓石を手当たり次第集め、それを石垣にした。
これを転用石という。現在の感覚では罰当たり的な行為だが、当時は中世から近世への端境期で、まだ寺院が軍事施設でもあった頃だ。本願寺など完全な武装集団だった。このような時代であり、ましてや比叡山や伊勢長島など宗教の聖地を焼き討ちにした信長である。
時代感覚の違いであり、そう珍しいことではなかった。しかし、福知山の場合はその数419個といわれ、かなりの数で日本一と思われる。

光秀は丹波の居城として京に近い亀山(現在の亀岡)を選び、福知山には甥の秀満を置いた。この光秀が3年後の天正10年(1582年)に本能寺の変を起し、秀吉によって滅ぼされたのは周知の通り。このとき秀満も福知山を出て、琵琶湖畔の坂本城で自害している。
天正14年(1586年)に福知山城は秀吉の養子秀勝が治め、さらに小野木重勝に与えられた。重勝は関ヶ原で西軍に与して領地没収のうえ切腹となる。
代って福知山には有馬豊氏が8万石で入封した。豊氏の時代に今日の福知山城の原形が整えられたといわれる。

有馬豊氏は元和6年(1620年)閏12月に、大坂の陣などの功績により筑後久留米に転封されて20万石の国持大名となり、以後は岡部氏、稲葉氏、松平(深溝)氏が相次いで藩主となる。石高は4万5千石から5万石の範囲であった。
寛文9年(1669年)に常陸土浦から朽木稙昌が3万2千石で入封し、明治まで十三代続いた。朽木氏は近江源氏佐々木氏流に繋がる名門で、佐々木信綱の二男高信が近江高島郡を領して高島氏を名乗り、その二男頼綱が近江朽木谷に住したことから朽木を名乗った。京極氏や六角氏と同族で、徳川氏などよりはるかに名門である。
江戸時代を通じて比較的小さな城下町であった福知山であったが、明治に入り歩兵第20連隊が置かれ、さらに海軍の要港であった舞鶴への鉄道網の中継点として重要性を増していった。

今日の福知山城は公園として整備され、昭和60年(1985年)に大天守、続櫓、小天守が復興され市のシンボルとなっている。大天守は三重四階の望楼型下見板張で、内部は郷土資料館になっている。
この部分がかつての本丸で、本丸の東側は丘陵突端で断崖であった。断崖の下にあたる部分に駐車場があるが、そこから見上げてもかなりの高さである。
本丸から西側、現在の市役所のある側に二の丸、三の丸と続き、それらを囲むように北、西、南に侍屋敷があったようである。
遺構としては、本丸の南に銅門番所がある。この番所は現存する唯一の遺構建物で、もともと二の丸にあったものを大正年間に天守台上に移し、さらに天守復興の際に現在地に移された。また豊磐ノ井戸(とよいわのいど)は、直径2.5m、深さは50mといわれている。そして石垣には夥しい数の転用石を見ることができる。
(平成21年8月訪問 #33)

参考文献:よみがえる日本の城(学研)、城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、福知山城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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