歴史の勉強

備中国  備中松山城

二の丸より

         
トップ画像は備中松山城二の丸より本丸を望んだもので、左から六の平櫓、本丸南門、五の平櫓、天守である。
この城は日本屈指の山城であり、大規模な工事が困難なために、城内に11ある櫓のうち10は平櫓であり、二階は櫓が1、そして天守も二重二階の小ぶりなものであった。
天守は江戸期に建てられたものが残り、いわゆる現存十二天守の一つに数えられ、二重櫓も現存であるほか、土塀の一部も現存する。

この城は前山、小松山、大松山の山稜からなる臥牛山全域と、その南麓の内山下から構成される大規模な山城であった。
もともとは標高486mの大松山に、仁治元年(1240年)に相模国の三浦一族であった秋庭重信が築城したのがはじまりとされるが、確かなことはわかっておらず伝承の域を出ない。
歴史的にはっきりしているのは、元弘年間(1331~4年)に備後国の三好一族であった高橋宗康が大松山に入城したことからで、このころに備中松山城は小松山にも拡張されたらしい。

高橋氏はその後、流山城に去り、文和4年(1355年)に高師秀が備中守護として入城するが、貞治元年(1362年)に秋庭重盛に城を追われ、以後六代にわたり秋庭氏の居城となった。
その後は上野氏、庄氏と城主が変わり、文禄4年(1561年)に毛利元就の与党である三村家親の城となる。戦国期は毛利の支援を受けた三村氏と山陰尼子氏や備前宇喜多氏が争い、城主はめまぐるしく代った。
天正元年(1573年)ごろには三村氏が城を領していたが、このころには小松山に本丸が移り、大松山をはじめ全山が要塞化していたようだ。さらに麓の内山下には平時の居館である根小屋も設けられたようだ。

天正3年(1575年)春、三村氏は毛利・宇喜多連合に敗れて滅び、備中松山城は毛利氏の城となった。織田氏の侵攻に伴って備中は毛利対織田の前線となるが、その攻防中に織田信長は本能寺に斃れた。
これを機に、備中は毛利と織田氏の跡を受けた豊臣勢力の境界となり、備中松山城は毛利の最前線の城となった。関ヶ原役で毛利氏は防長二国に追われ、城には西国目付として小堀正次・政一父子が入った。
政一(小堀遠州)は作事名人として有名で、根小屋跡や頼久寺に遠州作の庭が残る。小堀氏の跡は池田氏二代、水谷氏三代の居城となった。

天和元年(1681年)に水谷勝宗により大改修が行われ、このときに天守や二重櫓をはじめ多くの櫓や門が整備され、現在の形となった。
このときに大松山城は放棄され、小松山城が象徴としての城とされ、内山下の根小屋が政庁、さらに城下町が整備された。水谷氏は次の勝美に嗣子がなく断絶した。
水谷氏断絶の際に城を請け取ったのが播州赤穂の浅野内匠頭長矩で、家老の大石良雄が1年ほど松山城に在番としてとどまった。
その後安藤氏、石川氏が相次いで入り、延享元年(1744年)に板倉勝澄が封ぜられ七代にわたり継承して明治を迎えた。


左:大手口から三の丸と二の丸の石垣を見る、右:大手門から現存土塀を見る

備中松山城は、根小屋から小松山城、さらに大松山城までを徒歩で巡るのが正式なのだろうが、これはまさに登山に近い。実際は途中の鞴峠まで車で上り、そこから小松山城を巡るのが一般的だ。
大松山城にも行けることは行けるのだが、訪問時(平成22年8月)は災害により石垣が崩壊し、小松山城から先は立入禁止で、物理的に大松山城は断念せざるを得なかった。
なお、鞴峠まで車で行けるのは平日のみで、土休日は山麓の駐車場まで車で行き、そこから有料のシャトルタクシーで鞴峠に行き、小松山城に向かうこととなる。

鞴峠から暫く歩くと、目の前に豪壮な石垣が飛び込んでくる。誰しもがしばし見とれる大手口の景観である。岩盤上に築かれた石垣は高く、その美しさに圧倒される。
石段を上がり大手門の枡形を経て正面には現存の土塀が白くまぶしい。土塀に沿って石段を上がると、右手には三の丸跡がある。黒門跡の先の右手には厩曲輪があり、ここにも現存土塀がある。
さらに石段を登り、鉄門跡を過ぎると小松山域で最大の曲輪である二の丸となる。ここからは城下町が一望できる。ここから本丸を望んだのがトップの画像だ。この先の本丸域は有料となる。


天守:左側が入口で、入口部分は天守とは別の建物であり、本来は多門櫓と八の平櫓に繋がる廊下の一部であった

備中松山城の天守曲輪は、標高430mの小松山山頂に位置する。南門の右に五の平櫓、左に六の平櫓があり、いずれも復元されている。六の平櫓の先には七の平櫓あった。
北側には二重二階の天守があがり、現在入口になっているのは西側の建物であるが、これは廊下の一部である。この廊下を多門櫓に通じ、さらにその先に八の平櫓があった。
往時は八の平櫓から多門櫓を通り、廊下から天守に入ったわけである。天守の一階は北側と東側が出っ張っているが、これは二階が西寄りにあるためである。

天守一階には山城の寒さ対策のためとも籠城対策のためともいわれる囲炉裏が切られている。また一階北側の出張った部分には装束の間がある。
ここは武運拙く籠城戦に敗れた城主が、最期を迎える際に装束を改める場所とされ、一階床よりも高くなっている。しかし見通しの悪い格子窓や中が空洞の壁など、防御面では弱く、象徴的な意味合いが強い天守である。


左:城内唯一の二重櫓で、小天守に相当する、中:後櫓跡、右:搦手門跡

天守の後方、北側には小天守にあたる二重櫓がある。城内のほかの櫓が全て平櫓であるのに対し、唯一の多重櫓で、さらに北側の後櫓と合わせて天守曲輪の北側を守る。
さらに天守曲輪には引戸構造の東御門、天守から二重櫓への通路脇に北御門がある。また後櫓には九の平櫓があった。
本丸の東側下を通り、二重櫓の東側下にあたるあたりが搦手門跡になる。さらにその先が水の手曲輪で、ここには十の平櫓があったが、この水の手のところで石垣が崩壊し通路を塞いでおり、今回の訪問ではこの先の大松山城へ向うことは不可能であった。 (平成22年8月訪問 #114)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、よみがえる日本の城(学研)、城を歩く・備中松山城(PHP研究所)、城郭探検倶楽部(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、備中松山城パンフレット、関連ホームページ

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