歴史の勉強

近江国  安土城

天主模型


城郭訪問記100城目を記念して、日本城郭史のエポックメーキングともいえる安土城の巻。
周知のように織田信長によって天正4年(1576年)正月に着工されたこの城は、天正9年(1581年)に完成するも、翌天正10年に本能寺の変直後に炎上してしまった。
壮麗を極めた天主を持ち、それはまた天下布武の象徴でもあったが、信長の死とともにはかなく消え去った悲運で短命な城でもあった。

安土城は標高106mの安土山に築かれた城である。安土山は近江南半部の守護であった名門六角氏の城のあった繖山(きぬがさやま)とは尾根続きで、かつては半島状に琵琶湖に突き出しており、陸続きだったのは百々橋口だけであった。
現在では埋め立てられてしまい、安土山全体が琵琶湖から離れてしまっている。そして安土山周辺には滋賀県立考古博物館、信長の館、城郭資料館などがある。安土城に向かう前に予習がてら回ってみるのもいい。
滋賀県立考古博物館は城郭模型をはじめ歴史や出土品など、信長の館は天主の五階と六階部分を原寸大で復元して展示、城郭資料館は安土駅前にあって1/20の天主模型(上の写真)や屏風絵風陶板壁画がある。
ちなみに3個所とも駐車場は無料。安土城前の駐車場は500円取られるので、考古博物館の駐車場に止めて10分ほど歩いて安土城に向かうのがお得。


さて安土城には県道2号線から入る。すぐに駐車場があって、その先が大手口となる。ここには中央虎口のほかに東西にも虎口の遺構があるが、この虎口は信長時代の絵図には描かれておらず、そのころのものかどうかどうかは不明だそうだ。
大手口を入ると入場券を買って城内へ入る。目の前に伸びる石段が大手道である。直線的に伸びる石段の両側には家臣団の屋敷跡が並ぶ。左側に伝羽柴秀吉邸跡、右側には伝前田利家邸跡、伝徳川家康邸跡と続く。羽柴邸のビデオ再現画像を見ると上下2段に分かれ櫓門を持つ立派なものだ。
伝徳川家康邸跡の先で大手道は左に屈折し、さらに登る。左側には信長の右筆であった側近の伝武井夕庵邸跡がある。ここから登ってきた大手道を見ると、かなり急なことがわかる。


道は一度平坦になり百々橋口から道と合流し、再び石段となって信長の長男であった伝織田信忠邸跡を巻くように進み、黒金門に至る。黒金門手前の左手には伝織田信澄邸跡と寵臣であった伝森蘭丸邸跡がある。
黒金門は枡形を形成する主要部への虎口である。近世城郭ではごく普通に見られる枡形も、中世城郭では見られず、このことでも安土城が画期となる城であることがわかる。


大手西側虎口

大手道

伝前田利家邸

伝羽柴秀吉邸

伝武井夕庵邸と大手道

黒金門

黒金門から先が主要部となり、二の丸下帯曲輪から本丸西虎口と続く。この西虎口のところに仏足石がある。釈迦の足跡を刻んだ石のことで、各地の寺に現存するが、ただの石材として石垣に使われていたもののようだ。さすがに信長の城である。
石段を上がり左側にあるのが二の丸で、ここには秀吉が信長の一周忌に造営したとされる信長廟所がある、というより二の丸の大半を廟所が占める。
二の丸の反対側に広がるのが本丸跡で、ここにはかつて清涼殿と同じ平面を持っていたとされる御殿があったが、曲輪としてはさして広くはない。


そして本丸の北側に天主があった。一般的には天守だが、安土城の場合は天主と書く。天主虎口は穴蔵への進入口で、かつては一層目となる地下1階へ通じていた。
安土城天主は五層七重、地下1階地上6階のもので、不等辺七角形の天主台上に建つ望楼型天主であった。全体模型は内部も含めて城郭資料館で見ることができる。
望楼部の六重目が八角形、最上階の七重目が金箔張りで、六・七重目は文字通り廻り縁のある望楼であった。二~四重目が信長と家族の居住部であり、天主に住んだのは日本史上後にも先にも信長だけだという。


六重目と七重目(地上5階と6階)部分は信長の館に原寸大で復元されているが、これが意外と狭い。天主台に上がってみても、意外と狭いというのが感想だ。
礎石が残っているが、壮麗な天主といってもその実は、今の感覚からいうとかなり窮屈な高層木造建築というところだろう。
本丸の南東には三の丸があり、南東虎口や伝堀秀政邸跡が、また天主台の北側には北虎口があり搦手口に通じているがいずれも非公開立入禁止である。


本丸西虎口

二の丸

天主虎口

天主礎石

天主内(城郭資料館)

復元七重目(信長の館)

天主跡の見学を終えると元来た道を戻り、黒金門を経て今度は百々橋口へ向かう。ここから北へ道をとると七曲り道といわれる登城口があるが、ここも非公開である。
大手口は正門であり、めったに用いられない門であり、もっぱら通用門として用いられたのが百々橋口であったようだ。百々橋口へは、またまた石段を上がることになる。
上がったところが総見寺跡で、本丸から来ると総見寺裏門に達することになる。ここには三重塔が建つが、この塔は少なくとも享徳3年(1454年)以前の建立で、安土城より古い。石部町の長寿寺にあったものを移築したという。
そして表門跡から石段を下りて仁王門に向かうのがコースなのだが、先日の台風の影響でここから先は通行止め。つまり仁王門には近づけない状況で、残念ながら石段上からの撮影となった。
安土城見学もこれで終了で、元来た道を大手口へと引き返すしかなかった。ちなみに今回は観音寺城にも行く予定だったが、こちらも台風の土砂崩れで林道が通れず断念。


総見寺跡

総見寺三重塔

総見寺仁王門

安土城自体はいまさら説明の必要はあるまい。天正元年(1573年)に足利義昭を追放して室町幕府を名実ともに滅ぼし、さらに浅井朝倉を滅亡させて近江と越前を版図に加えた信長は、天正3年(1575年)には武田勝頼との長篠の戦いに勝利した。
この時点で信長は、琵琶湖の水運も利用できる交通の要地であり、支配地の中心点ともいえる安土に築城を開始した。本丸御殿が清涼殿を模しているのは、将来の行幸をにらんでのことといわれる。
だが、それは夢に終わった。天主の完成が天正7年(1579年)といわれ、その翌年には石山本願寺と講和し、さらに天正10年には武田勝頼を滅ぼした信長は、さらに飛躍する直前に本能寺に斃れ、安土城も焼失してしまった。
(平成25年11月訪問 #100)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、城郭探検倶楽部(新人物往来社)、名城を歩く・安土城(PHP研究所)、よみがえる日本の城(学研)、安土城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

城郭訪問録の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -