歴史の勉強

下野国  足利氏館

鑁阿寺楼門

    

鑁阿寺東門付近水堀

本堂にあたる大御堂

経堂

御霊屋(赤御堂)

清和源氏の名門足利氏は、源義家の二男義康が下野国足利庄に住して、足利氏を称したことに始まる。このとき、義康の兄の義重は上野国新田郷に入り新田氏を称し、のちに足利氏の後裔尊氏と対立、さらに南北朝に分かれて戦うことになる。
足利庄はもともと義家の三男で康の父にあたる源義国が開いたとされ、開発の後に朝廷に寄進されたといわれるから、義康から始まる足利氏の故地といっていい。
足利氏が関東の名族としての地歩を確保したのは、義康を継いだ義兼の代で、義兼は源頼朝の挙兵に逸早く参陣して功を挙げ、執権北条時政の娘を娶り、鎌倉幕府内で重きをなした。
この義兼が足利庄内の現在地に館を営み、建久6年(1195年)に出家して法名鑁阿(ばんな)を号し、さらに翌建久7年に持仏堂を建立した。
これが鑁阿寺の始まりであり、三代義氏は堂塔伽藍を建立して一門の寺とし、足利氏とともに発展していった。

足利尊氏(初名は高氏、尊氏は後醍醐天皇の名である尊治から尊の字を賜ったのちに改名したもの)は足利氏八代にあたり、武士の頭領となって室町幕府を京に開いた。
尊氏は武士の地の関東には鎌倉府を置いて、関東10ヶ国を支配した。鎌倉府の長を鎌倉公方と通称するが、最初の鎌倉公方は尊氏の三男基氏であった。
足利氏の嫡流は京、庶流が鎌倉に住し、足利氏発祥の足利の地の重要性はなくなったが、一族一門の氏寺である鑁阿寺は手厚く保護され、やがて足利氏の館もその境内の一角となっていった。

したがって現在の足利氏館跡は、鑁阿寺境内に含まれ、鑁阿寺とともに史跡に指定されている。足利市街地の中央に位置し、周囲には駐車場が整備され、JR足利駅や東武足利市駅からも徒歩圏内である。
周囲を土塁と水堀が囲み、山門である楼門と堀を渡る反橋は、足利十三代将軍義輝が永禄7年(1564年)に再建したもの。反橋を渡り楼門から境内に入ると、建久7年義兼建立といわれる鐘楼、建久7年建立の本堂大御堂、寺伝では義兼建立(実際は小弓御所国朝の再建らしい)とする中御堂、本殿に源氏の祖を祀り拝殿に足利十五代将軍像を祀る御霊屋(赤御堂)、義兼が一切経会を修する道場とした経堂(応永14年再建のもの)など多くの史跡がある。
(平成20年12月訪問 #45)

    

学校門

庫裡(奥)と方丈(手前)

衆寮

徳川歴代将軍位牌

鑁阿寺に隣接して足利学校がある。天文19年(1550年)にフランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界にも紹介した足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがあってはっきりしない。
江戸時代末期まで大学としての役割が連綿と続き、明治5年(1872年)に役割を終えた。昭和57年から平成2年にかけての史跡保存整備事業により、江戸中期の姿に復元された。

入徳門から入り参観券を買って、次の学校門から校内である。孔子を祀る孔子廟は現存するものとしては日本最古のものとされ、その東側に食事などの日常生活の場の庫裡と、勉学や応接の場である方丈が復元されている。
方丈の中には徳川十五代将軍の位牌がある。これは江戸時代には足利学校が徳川家と関係が深く、保護されたことに由来する。
そのほか学生の生活の場である衆寮や物置である木小屋などが建ち、国宝の典籍などは校内の収蔵庫保管されているという。

参考文献:足利学校パンフレット、日本姓史家系総覧、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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