歴史の勉強

播磨国  赤穂城

大手門・東北隅櫓


日本でもっともポピュラーな話のひとつが忠臣蔵だろう。勅使接待役となった浅野内匠頭が指南役の吉良上野介に対して江戸城中で刃傷に及ぶが討ちもらし、内匠頭は即日切腹、赤穂藩は取り潰された事件が前半、後半は筆頭家老大石内蔵助良雄のもとに浪人した藩士が集まり、主君の仇として吉良上野介を討ち果たすという日本人好みの物語。
この浅野内匠頭長矩の居城であったのが、赤穂城であった。赤穂城を本格的に築城したのは浅野長直で、正保2年(1645年)に常陸笠間から5万3千余石で入封し、そのときに近藤三郎左衛門正純に設計を命じて、13年を費やして完成した城である。
典型的な平城で、本丸を二の丸がすっぽりと囲むいわゆる輪郭式に築かれ、二の丸の北側には三の丸が続く梯郭式配置で、変形輪郭式と呼ばれる。

当時は二の丸の南半分と三の丸の西側が海に面している海城でもあった。城下町は三の丸の北側にあった。また良質な塩の産地でもあり、入浜式の塩田も広がっていた。
浅野氏初代の長直の跡を長友が継いで三代目が長矩である。浅野家改易ののちに、龍野藩主脇坂氏による城番時代を経て永井直敬が5年間藩主となったあとは、森氏2万石の城として十二代に渡り継承され廃藩置県となった。
赤穂城の前身は、室町期に播磨の守護で四職の家柄でもあった赤松氏の一族の岡豊前守光広が築いた、加里屋城とされる。
天正14年(1586年)に生駒親正が6万石を赤穂で得たが、すぐに讃岐に転封され、岡山の宇喜多氏の領地となり、代官が置かれた。
関ヶ原後は池田氏の領地となり、元和元年(1615年)に池田政綱によって3万5千石の赤穂藩が立てられた。政綱の跡を継いだのは弟輝興であったが、正保2年に乱心して妻子らを殺害し改易となり、代って入封したのが浅野氏である。


大石家長屋門

近藤家長屋門

城の北東にあたる位置に大手門があり、古写真をもとに東北隅櫓、枡形石垣とともに復元された。大手門を入ったところが三の丸で大石良雄の屋敷をはじめ重臣の屋敷があった。
現在でも大石家長屋門と近藤家長屋門が残る。大石家は長屋門を残して焼失しており、屋敷の跡地には大石神社があり、参道には義士像が建ち義士宝物館がある。
二の丸門跡を通り、左右に二の丸外堀を見て二の丸に入る。右側に二の丸庭園が広がるが、訪問時は調査中で立入禁止であった。

  

本丸門

厩口門

天守台

本丸御殿跡

大池泉

本丸を二の丸がすっぽりと囲む輪郭式の赤穂城では、本丸の周囲はすべて堀で囲まれており、出入りできるのは3つの門だけであった。
表門が本丸門で、高麗門と櫓門から構成されて、復元されている。厩口門は森氏の時代には台所門とよばれ裏門、通用門として機能した。もうひとつが不明門で刎橋門とよばれ、二の丸へは跳ね橋が架けられていた。
厩口門の写真を見えもわかるように、赤穂城の大きな特徴は高石垣による屏風折れを多用している点である。これは本丸だけでなく二の丸、三の丸も同様で、横矢の多用により敵への側面攻撃を強化している。

本丸の南東部には独立した天守台がある。石垣は9mあり、5万石には過ぎた天守台であるが、財政上の見地や泰平の世に幕府からの許可を得るのは容易ではないことなどから、天守は築かれなかった。
本丸内は大半が藩邸である御殿によって占められていた。現在は間取りが復元されているが、表(公的な場)、中奥(私的な場)、奥(女中の場)からなる、一般的な御殿であった。
このほかに本丸内には庭園として大池泉、中奥坪庭、くつろぎ池泉があった。特に大池泉は中島、入江、岬を模し、池の底には平らな石と瓦を敷いて池の水を清潔に保ち、有事には飲料水に使えるように工夫されていた。


米蔵

水手門

厩口門から出て再び二の丸に戻る。往時はこの向うが海であったが、今では道路が走り市街化が進んでいる。堀越しに本丸南西隅櫓台を見て少し行くと米蔵がある。
米蔵の先が水手門跡で、海に面した門であった。船が出入りできるように城壁を大きく引き込んでおり、門の前面には雁木が設けられ、波除の突堤もあった。雁木や突堤も含めて復元されている。この水手門から荷揚げされた米が収められたのが米蔵で、復興されて休息所にあてられている。
赤穂城は石高に比べて広大な城であるが、このほかにも櫓台や門跡などが多く残り、発掘調査も続けられており、近世城郭として貴重な遺構である。
(平成22年8月訪問 #55)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、よみがえる日本の城(学研)、赤穂城パンフレット、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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