歴史の勉強

播磨国  明石城

坤櫓

    

巽櫓

本丸石垣

桜堀

織田家長屋門

JR明石駅の高架ホームに立つと、目の前に城の櫓が2つ見える。向って左側の櫓を坤櫓、右側の櫓を巽櫓という。明石城の本丸は、四隅に櫓があったが、乾櫓と艮櫓は失われていて、坤櫓と巽櫓が明石城で唯一残る、現存建物である。
高架のホームからコンコースに降り、改札を抜けると目の前に道路の向こうはすぐに中堀である。大手門は駅の南側にあったから、明石駅の辺りは藩士の屋敷地であった。
駅と平行に姫路方向に歩き、中堀に架かる橋を渡ると、太鼓門枡形であるが、そこを入らずに少し歩くと、唯一残る武家屋敷の織田家長屋門がある。
長屋門を見て戻り、太鼓門枡形から城内に入ると、その内側の芝生の公園一帯が三の丸になる。目の前に石垣と現存櫓、櫓をつなぐ長塀が立ちはだかるように迫る。
明石城は海岸を見下ろす丘陵地に建てられた平山城で、東西に伸びる尾根筋に中心部が置かれている。尾根筋は石垣で覆われ、その真下にいるわけだ。

中心部は連郭式で、西から稲荷曲輪、本丸、二の丸、東の丸の順で、本丸の西側に天守台があるが、天守は設けられなかった。
天守の位置としては南西隅、今の坤櫓に築かれるべきものだが、あえて位置をずらしたのは最初から築く気はなかったためとされる。天守台だけ築き、格式を保ったというのが通説だ。
本丸には坤櫓下からも二の丸下からも行ける。本丸も二の丸も、東の丸も芝生が植えられた公園となり、間近に現存の二基の櫓を見ることができる。
明石城では本丸を中心に見事な石垣を見ることができる。現在の石垣は寛永期に修築されたものというが、平成7年に阪神淡路大震災では大きな被害を受け、平成9年から3年間修復工事が行われた。
城の防備は南側には中堀、北西には巨大な剛の池があって、この池の水を引いて本丸北側から東にかけて桜堀が設けられた。さらに本丸東側には薬研堀、箱堀が設けられている。
薬研堀周辺は森も深く、駅前からわずか数分の地にいるとは思えないほどである。丘陵地を上手く使って築城しているのがよくわかる。

明石に城が築かれたのは大坂の陣の後で、小笠原忠真が二代将軍徳川秀忠から新城築城を命ぜられたのは、元和4年(1618年)のことであった。
忠真はその前年に信濃松本から移封され、当初は海よりにあった船上(ふなげ)城に入城した。船上城は高山右近が築いた城という。
秀忠は新城築城を命じた際に、忠真の義父で姫路城主の本多忠政に相談をするように申し渡し、忠政は自ら明石に出向いて候補地を選定した。
これが現在の城地で、人丸神社があったことから人丸山と呼ばれていた。人丸とは柿本人麿のことで、人丸神社は東方に移された。

工事は翌元和5年から始められ、一国一城令で廃城になった播磨国内の船上城、三木城、高砂城などの建物を解体して利用したという。
このリサイクルは城下の屋敷でも行われ、織田家長屋門も船上城のものといわれている。工事は急ピッチで行われ、三の丸は幕府と小笠原家の共同工事、本丸と二の丸は幕府の直営で行われ、完成までは1年という短さだった。
小笠原忠真は16年間在城の後、寛永9年(1632年)15万石となって豊前小倉に転封、翌年に松平(戸田)康直が7万石で入部した。
明石城は姫路城とともに西国大名への備えの城で、代々の城主は譜代大名であった。松平(戸田)氏二代の後は、大久保氏一代、松平(藤井)氏二代、本多氏一代と70年の間に城主はめまぐるしく代る。
天和2年(1682年)越前大野から松平(越前)直明が6万石で入り、のちに8万石となって幕末まで十代にわたり明石城主をつとめた。
(平成21年8月訪問 #28)

参考文献:城郭みどころ事典・西国編(東京堂出版)、、よみがえる日本の城(学研)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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