歴史の勉強

陸奥国  赤館

    

主郭下帯曲輪

主郭

棚倉といえば江戸時代には譜代大名が代々城主を勤めた地であるが、現在の地に棚倉城が築かれたのは元和8年(1622年)に丹羽長重が領主となってからだ。
それまでこの地の中心をなしたのが赤館であったが、戦国期の館に過ぎない赤館は5万石を得て入城した長重にとっては相応しい城ではなかった。
そこで長重は2年後から新城を築き始めたが、その完成を待たずに陸奥白河10万石に移封され、新城の完成を見たのは次代の内藤氏のときであった。いずれにせよ新城の完成により赤館は廃城となった。
この地は鎌倉時代初期に伊達氏の飛地となり、南北朝期以後は白河結城氏の領地となった。その後、永正10年(1510年)ごろには常陸の佐竹氏の支配下に移る。
やがて佐竹氏は関東で覇を唱えた小田原の後北条氏と激しく対立する。その中で元亀2年(1571年)に赤館は、その奪還を狙った白河義親の攻撃を受けた。
それを見た北条氏は佐竹領の下妻城を攻め、佐竹氏はこれに対処するために白河氏と和睦して赤館を放棄した。

以後暫くはこの地は佐竹氏と葦名氏、結城氏の争奪の地となり、葦名氏と白河結城氏が没落したのちは伊達氏と佐竹氏の対立の地となった。
豊臣秀吉が北条氏を征伐し、やがて奥州仕置にかかる。この結果、白河結城氏は完全に消滅して、この地は佐竹領と認められた。
ところが関ヶ原役で佐竹氏は結果的には中立を保ったものの、徳川氏に対して消極的な敵対をした。家康はこれを問題視し佐竹氏を出羽久保田20万石に追った。
慶長8年(1603年)に立花宗茂が1万石を得て城主となる。宗茂は関ヶ原で西軍に属し、戦後は改易されたが宗茂の名声を惜しむ家康に赦されて大名に復帰したものだった。
宗茂はその後に数度の加増を得、元和6年(1620年)に旧領の筑後柳河に復帰したために天領となったが、やがて丹羽長重が入城する。ちなみに長重も関ヶ原で西軍に属して改易され、赦されての元和5年(1619年)に常陸江戸崎で大名に返り咲いものであった。

赤館が築かれているのは鹿子山という山で、標高354mのこの丘陵が関東と東北の分水嶺である。この山の南面に降る雨は久慈川となり、北面に降る雨は阿武隈川となる。
現在の赤館は公園化され、虎口、曲輪、土塁、空堀などが一部に残るものの、全体としては遺構はほとんど崩されてしまっている。
ただ標高は低いが公園からは棚倉の街が見下ろせ、その眺望はすばらしい。棚倉城からの距離もわずかであり、セットで訪れるのがいいだろう。
(平成21年5月訪問 #67)

参考文献:関連ホームページ

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