歴史の勉強

武蔵から能登へ

吉見氏の系図には「尊卑分脈」、続群書類従所収の「吉見系図」、「萩藩閥閲録」等々十種以上あるといわれるが、いずれも出自は清和源氏源範頼としている。
建久4年(1193年)に範頼が兄の源頼朝の怒りに触れて伊豆で誅殺され、その二男範円と三男源照が頼朝の乳母比企禅尼によって助けられ、武蔵国比企郡慈光寺に預けられた。
その後範円の子の為頼が、比企郡吉見荘に知行を与えられて吉見氏を称したが、これも比企禅尼の庇護によるというのが説になっているが、比企禅尼の年齢や比企氏が乱をおこして滅亡したことなどから、疑問視されている。
いずれにせよ範頼の孫為頼が吉見氏を名乗り、その祖とされたことは間違いなく、また「吾妻鏡」や「承久記」に吉見の名がみえることから、為頼以前にも吉見姓があったこともまた確かである。
ただし、為頼以前の吉見氏と為頼以後の吉見氏が、どう関係するのかはわかっていない。

為頼は「萩藩閥閲録」によれば、建久8年(1197年)能登国へ下向とあり、このときに二男頼宗や従者(同書に家臣大庭、丸毛、岩松、竹村等とある)とともに能登に移った。
一方武蔵に残った吉見氏は、その後の事績はまったく不明で、能登に移った為頼の跡を義春‐義世と継承されたが、永仁4年(1296年)に謀叛の罪で斬首され断絶した。このために吉見氏の惣領は能登吉見氏に受け継がれた。
吉見氏の能登下向に関しては、新たに能登守護となった北条一門の名越氏と姻戚関係にあり、そのため守護代など何らかの地位を得て移住したとする説がある。
この時期に多くの鎌倉御家人が、地頭に任命されて地方に送られたことや、吉見氏が本貫地の武蔵で所領拡大の可能性がなかったことを考え合わせると、吉見氏は能登に新たな可能性を見出すべく移住したのであろう。

能登に入国した吉見氏は、国内でもっとも肥沃であった邑知潟周辺を本拠とし、荘園を侵略し、土豪とも縁戚関係を結んで勢力を伸ばしていった。
鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による新政がはじまり、年号も建武と改められたが、新政に対する武士の不満がすぐに噴出して、建武2年(1335年)には足利尊氏が叛旗を翻した。南北朝動乱の始まりである。
北陸では尊氏に呼応した越中守護井上利清が、能登石動山み立て籠もった国司中院定清を攻め滅ぼした。吉見一族も尊氏に応じて、その与党となり、吉見宗寂は建武3年(1336年)に能登守護に任じられた。
宗寂は能登吉見氏の祖為頼の孫であり、為頼二男頼宗の子とされ、実名は不詳ながら頼為ではないかといわれる人物である。

能登吉見氏の盛衰

この後、守護は宗寂の子といわれる頼顕、宗寂の弟とされる頼隆と短い期間に交代している。いずれにせよ、この吉見氏の守護補任を契機に口能登の豪族は尊氏方となり、宗寂に率いられた能登武士団は越前の敵対勢力新田勢、脇屋勢を掃討した。
さらに尊氏により越中守護を罷免されたことを不満として南朝方に寝返った、前越中守護井上利清が挙兵すると、これを攻めて越中松倉城を囲んでいる。
観応元年(1350年)に尊氏の弟直義が、政治的な対立から叛旗を翻した。世に言う観応の擾乱である。井上利清や越中守護桃井直常らは直義と結んで能登に侵入した。
このころ理由は不明ながら、吉見頼隆は能登守護を罷免され、桃井盛義と交代させられている。しかしこの交代は政治的な意味合いは薄かったようで、吉見一族は一貫して尊氏方に属し、同じく尊氏与党の得江一族とともに鹿島郡赤蔵寺に立て籠もって包囲する越中勢と戦っている。
観応3年(1352年)2月に足利直義が死去し、北陸の秩序も回復した。吉見氏頼(頼隆の子)が新たに能登守護となった。

能登武士団には所領安堵と引き換えに、尊氏に対する忠誠が求められ、能登武士団は氏頼のもとに再結集され、再び越中の井上勢、桃井勢への攻撃が開始された。
文和元年(1352年)6月、氏頼は越中に侵攻し水谷城や氷見湊を攻めた。一方桃井直常は、対抗策として能登島の地頭長胤連と結んだ。
そこで氏頼は文和2年から3年にかけて、能登島の長氏を討伐して能登島を勢力下に治めた。延文4年(1359年)氏頼は再び越中に侵攻し、井上利清を攻めてこれを滅ぼした。
康安2年(1362年)に足利二代将軍義詮は、越中守護桃井直常の追討を氏頼はじめ北陸の武士団に命じ、氏頼は桃井氏との激しい戦闘に明け暮れた。

応安元年(1368年)に新たに越中守護となった斯波義将が、越中松倉城を攻めると、桃井直常は松倉城を棄てて能登に向かい、金丸城や能登部城に迫った。
吉見勢も対抗して激しい攻防戦の末にこれを退け、桃井氏に加担する富来氏を討った。敗れた桃井勢は加賀に乱入して、守護富樫氏の諸城を攻めたが、吉見氏はこれを救援した。
桃井勢は越中に逃げ、追撃した吉見氏頼は斯波義将と協力して、桃井勢を攻めた。桃井直常は応安2年に義将との戦いで戦死した。
応安2年に吉見勢は奥郡に侵攻して、若山荘山方城の山方六郎左衛門尉を滅ぼし、これによって北陸から反幕勢力は一掃され、同時に能登における吉見氏の支配体制が確立した。

三代将軍足利義満は、幕府権力強化を目的として、守護を在京させた。これにより吉見氏頼とその子詮頼も京に居館を構えた。
吉見氏は将軍に側近く使える奉公衆にも選ばれたようで、文字通り将軍側近として仕えていたようである。このころが能登吉見氏の絶頂期であり、こののち康暦の政変を境にして急速に衰退していく。
康暦の政変とは、幕府の実権を巡る斯波義将と反斯波派の争闘である。反斯波派の管領細川頼之は、この政変で失脚し、頼之に近かった吉見氏頼も守護を罷免された。
もっともこの政変後、多くの守護が交代させられ、新たに足利一門の大名が守護に任命されている。これは将軍義満による専制化の一環であり、吉見氏もその流れの中で失脚せざるを得なかったようだ。
能登の新守護には畠山氏が任じられ、基盤を失った吉見氏だが、一族のうちにも能登に住し、所領を得ていた者もあったようだ。戦国期まで吉見氏の一族が能登に在住したことが、文書で確認できるが、畠山氏の家臣となっていたのは確実なようだ。

石見吉見氏の興隆

能登吉見氏の庶流に石見吉見氏がある。石見吉見氏は、吉見頼行が蒙古襲来に備えて弘安5年(1282年)に幕命によって石見国に下った、あるいは石見国吉賀郡の地頭職として下向したことに始まるといわれる。
頼行は永仁3年(1295年)に野々一本松に城を築き、そこを本拠として土着し、次代の頼直のときに後醍醐天皇による建武の新政を迎えた。
すなわち元弘3年(1333年)に後醍醐天皇は、配流先の隠岐を脱出して伯耆国船上山に至り、全国の反幕府勢力に綸旨を発した。吉見頼直は綸旨を奉じて、長門探題北条時直を攻め、新政後には恩賞として阿武郡を得た。
しかし建武の新政に対して武士たちの不満が起き、早くも建武2年(1335年)には足利尊氏が反乱を起こし、南北朝動乱の時代となる。武士たちは南北両党に分かれて相争い、一族が分裂して戦うことも珍しくなかった。

この時代の吉見氏について、はっきりしたことは不明だが、一貫して北朝方に属していたようだ。ただし頼直の弟といわれる頼基や、一族の高津入道道性長幸らが南朝に与していたらしい。
その後、観応の擾乱が起こると直義‐直冬に与したようで、頼直の二男元智と元智の子の元実が直冬党に属して出雲で活躍したことが、明らかになっている。
三代直頼から四代弘信の時代になると、周防の大内氏が勢力を広げ、やがて大内氏は周防、長門、石見の守護に任じられた。こうなると吉見氏も大内氏に従うようになった。
大内氏は吉賀郷を半済地(年貢半分の徴収権を守護に認めること)や守護領にしたりして、吉見氏を圧迫した。

五代頼弘は石見吉見氏中興の祖とされる。頼弘は応安2年(1405年)正月、福屋氏兼、周布兼宗、三隅弘世、益田兼家ら石見の有力国人領主と盟約を交わし、これを背景に守護領となった吉賀郷に侵攻し、幕府に吉賀郷の領主権を認めさせた。
それはまた能登吉見氏の支配から脱することでもあり、能登吉見氏からの吉賀郷押領の訴えを退けて、石見の国人領主として地位を名実ともに確立し、独立したことでもあった。
このような石見吉見氏の成長は、当然のように他の国人領主との衝突を引き起こした。特に隣接する益田氏との間で多くの軋轢を生んだ。
このような状況で応仁の乱が勃発した。応仁の乱当時の石見守護は山名政晴であり、また大内氏も西軍(山名方)に属したため、石見の国人領主はほとんど西軍に味方した。

しかし応仁の乱は、一族間の対立や家督争いも絡んで複雑な様相を呈していった。西軍の有力大名大内氏も、当主政弘の伯父である教幸が東軍(細川方)に寝返って、大内家督を狙った。
吉見氏の当主は八代信頼であったが、信頼は教幸に応じて挙兵した。これは教幸を奉じて大内氏に敵するとの意図ではなく、陶氏(大内氏の重臣)や益田氏を打倒するためであったとされる。
京にあった大内政弘は、益田貞兼を急ぎ帰国させ、陶弘護と協調して教幸を攻撃させた。この結果、信頼は劣勢に陥り、教幸は九州に逃れて乱は終息した。
同時に信頼は多くの所領を失うことになった。また、このことは吉見氏と益田・陶氏との対立を深めることとなった。

文明9年(1477年)に大内政弘が帰国すると、信頼は前非を詫びて許され、大内氏に臣従することとなったが、信頼と益田・陶氏の対立は根深いものがあった。
文明14年(1482年)5月27日、大内政弘は諸将を招いて山口で酒宴を催した。この席で信頼は陶弘護を刺殺し、自身も内藤弘矩に討たれた。信頼は酒宴に向かう前に、弟の頼興に家督を譲っていることから、覚悟をしての山口行きだったようだ。
しかし大内政弘は内乱に発展することを憂慮し、領国の安定を優先に考えて吉見氏討伐は行わなかった。これに対し頼興は、信頼回復のために政弘に忠誠を励み、大内義興の時代にはほとんどの合戦に出陣した。

大内家臣から毛利家臣へ

永正4年(1504年)に義興が足利義稙を奉じて上洛すると頼興も従い、永正8年(1508年)の京都船岡山の戦いでは大活躍した。
さらに頼興は、嫡子隆頼の正室に義興の娘を得た。しかし隆頼は早世し、このため僧となっていた弟を還俗させた。これが正頼で、義興の娘を正室にして家督を継いだ。
正頼は義興とは義兄弟となり、これによって吉見氏と大内氏の関係は一層緊密になった。享禄元年(1528年)12月に、義興は病没し跡を義隆が継いだ。
大内氏は周防、長門、石見、安芸のほか筑前、豊前、豊後と7ヶ国の守護を兼ねる強大な戦国大名となっていた。

天文13年(1543年)義隆は、出雲の月山富田城に尼子氏を攻めたが敗れ、溺愛する養嗣子晴持を失った。これを境に義隆は軍事に倦み、文弱に流れた。大内家中は文治派と武断派が対立するようになった。
やがて武断派の重臣陶、内藤、杉氏らが謀叛に走り、ついに天文20年(1551年)に挙兵した陶隆房によって、義隆は自刃させられた。
隆房は豊後の大友氏より晴英を迎え、義長と改名して大内家当主に据えた。この動きに吉見正頼は反陶に兵を挙げた。天文22年(1553年)正頼は三本松城、嘉年城、下瀬山城などに拠ったが、ほとんど孤軍の状態であった。
陶氏には益田氏も味方して、三本松城を囲んだ。防戦5ヶ月、ついに正頼は本拠としてきた三本松城を開城して人質をだし、和議となった。

一方、このころ安芸の毛利元就が反陶の兵を挙げた。陶方が正頼との和議に応じたのも、毛利氏の攻撃に対処する必要があったからのようだ。
元就は弘治元年(1555年)、厳島で陶氏を滅亡させ、その後、山口の義長を攻めた。正頼も呼応して山口に入る。義長は孤立無援となり弘治3年に自害し、周防、長門両国は毛利氏の支配下となった。
これ以後正頼は毛利氏に臣従し、広頼‐元頼‐広行と継がれていくが、広頼は病弱であり、元頼も文禄の役で活躍するが、短命であった。
広行は元頼の弟であり、慶長の役で活躍したが、慶長3年(1598年)に突然毛利家を出奔する。所領を巡る行き違いからの出奔のようで、隠居していた広頼が再び家督となった。
広行は、慶長5年(1600年)関ヶ原役の直前になって帰参して許された。関ヶ原役では毛利当主の輝元は西軍の総帥となり、吉見氏もその臣下として西軍に属す。

そして敗戦により、毛利氏は防長ニケ国に押し込められ、広行も石見国を離れることとなった。広行は新たに長門阿武、厚東両郡で2万石を与えられた。
しかし広行はこれを不満として再度出奔し、輝元は吉見家を断絶とした。ただし広頼には隠居領として千石余が認められた。
元和3年(1617年)12月に広行は広長と名を改めて長門に戻り、輝元はこれを許した。広長は感激して毛利家に忠誠を尽くすことを誓うが、輝元を毒殺する計画を立てていると讒言された。
これを信じた輝元は討手を差し向け、広長は子とともに自刃した。ここに石見吉見氏は事実上滅亡した。なお広頼は広長の出奔中に吉川広家の三男就頼を養子にしており、この家は大野毛利家として存続した。

参考文献:室町幕府守護職家事典(新人物往来社)、戦国大名系譜人名事典西国編(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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