歴史の勉強


厄除け大師やラーメンで有名な栃木県佐野市のある唐沢山城は、関東七名城のひとつであり、上杉謙信や後北条氏の攻撃を何度も退けた堅城である。この唐沢山城の拠ったのが佐野氏であった。

関東の名族として

佐野氏の歴史は古く、藤原秀郷の後裔という。秀郷の庶流の藤姓足利氏(尊氏らの源姓足利氏ではない)の庶流足利有綱の子基綱が下野国安蘇郡佐野庄の土着して、佐野太郎基綱を名乗ったのが佐野氏のはじまりとされる。
寿永2年(1182年)、東国支配を目指す源頼朝に対して、その弟であった志田義広が自領の常陸国信太荘を中心として反乱を起こした。
足利俊綱、忠綱父子も義広方の有力武将として乱に加わったが、小山朝政の策略にあって野木宮で激しい合戦となり敗れ去った。
この敗戦で宗家である藤姓足利氏は没落し、一方、朝政方に与した基綱は鎌倉幕府御家人となって佐野地方を支配した。

基綱は建保2年(1214年)に京都の建仁寺から千光国師を招いて、田沼に興福寺を建立するなど、深く仏教にも帰依した。
承久3年(1222年)には承久の乱(後鳥羽上皇が鎌倉幕府倒幕を企てた兵乱)で武功を挙げ、淡路国で所領を得たが、宝治元年(1247年)の宝治合戦(鎌倉幕府執権の北条氏と有力御家人三浦氏の抗争)で三浦氏に与したために、淡路国領などを没収され、わずかに本領佐野荘だけを領することが認められ、一時的に没落してしまった。
基綱の跡を国綱が継ぎ、その次の実綱は三浦泰村の謀反に加担し、露見すると嫡子成綱らとともに自害、末子の清綱が五代となった。

清綱の跡は直綱-資綱-師綱-重綱-季綱-盛綱-秀綱と続いた。この間、建武の新政からやがて南北朝の対立期に入るが、佐野氏は尊氏方に立ち、付近の南朝勢力に対して抗したほか、一族の氏綱は河内から大和にまで転戦している。
秀綱は二代将軍足利義詮に従って、観応の擾乱で戦功を挙げて、貞治5年(1366年)に越中で所領を得たという。
この秀綱は古河公方に仕え、唐沢山城の拡張を図り、この地方有数の堅城に仕立て上げ、佐野氏の戦国大名化の基礎を築いた。

戦乱の時代を生き抜く

秀綱の次が泰綱、さらに豊綱と続く。泰綱、豊綱も古河公方に仕え、豊綱は上杉氏と戦った。その後は北条氏康との河越夜戦に上杉氏と連合して参陣したが、氏康に敗れた。
豊綱は、永禄元年(1558年)5月に、上杉謙信が会津の蘆名盛氏と連合して下野の有力な国人領主宇都宮氏を攻撃した際に、宇都宮方の多功長朝に討ち取られたという。
豊綱の戦死はともかく、この頃の関東は小田原の後北条氏に対して、越後の上杉謙信や甲斐の武田信玄が対抗する戦乱の時代に突入していた。
そのなかで佐野氏のような弱小な勢力は、家を保全していくことに常に悩み、その時々の最強勢力へ与することで生き抜くしか道はなかった。
特に佐野氏の拠る下野国南部は、後北条氏の勢力が及ぶ最北端であり、越後から関東入りする上杉氏の最前線でもあった。

このようななかで永禄元年に上杉謙信の関東進出が行われ、佐野氏も上杉方となって豊綱の戦死に至ったのである。
豊綱の戦死の跡を受けて家督を継いだのは昌綱であった。昌綱は豊綱の弟であり、上杉に与したために永禄2年(1559年)に北条氏康の攻撃を受けた。
このときは北条軍を撃退したが、その後に上杉氏から離反し北条氏康についた。永禄3年(1560年)に謙信が再び関東に入り、唐沢山城を攻撃した。
さらに永禄5年(1562年)、翌永禄6年、永禄7年と連続して謙信の攻撃を受けた。永禄5年の攻撃の時には北条氏康は河越まで軍を進め謙信を牽制し、永禄6年のときはあまりの堅城に謙信も攻略をあきらめた。
しかし永禄7年のときは謙信軍の猛攻にあい、佐竹氏や宇都宮氏の説得もあって、謙信に降伏開城し再び上杉に与することとなり、唐沢山城は上杉氏の関東での重要拠点となった。

唐沢山城は今度は逆に後北条氏から攻撃を受けることになり、永禄10年(1567年)には城を包囲され、猛攻撃を受けたが、からくも守りきった。
元亀2年(1571年)に北条氏康が没し、さらに天正年間に入ると上杉氏の関東での影響力が弱まり始めた。
そのような中、天正2年(1574年)に昌綱は没し、宗綱が15歳で家督を継いだ。昌綱は後北条氏と上杉氏の勢力の間で翻弄されながらも、堅城唐沢山城に拠って両軍の攻撃を何度も退けた。昌綱は知勇兼備の武将と讃えられている。
昌綱の頃には唐沢山城には上杉の城代として色部顕長が入っていたらしいが、宗綱家督の前後には既に帰国していたようだ。
天正3年(1575年)には小山の祇園城が後北条氏によって陥落させられていることから、唐沢山城一帯にも北条の勢力がおよびつつあったようだ。

北条氏の一族へ

天正6年(1578年)に謙信が急逝し、後楯を失った宗綱は常陸の佐竹氏を頼って後北条氏に対抗した。
天正9年(1581年)には、北条氏邦に唐沢山城を囲まれたが、佐竹氏の援軍を得て撃退している。
さらに翌天正10年には、武田氏を滅亡させた織田信長の関東方面軍の指揮官であった滝川一益とも誼を通じた。
同じ頃、隣接する足利城主の長尾顕長との間で所領をめぐる抗争があった。長尾氏も宗綱同様に反北条であったが、西方に進出した佐野氏と、足利荘南部で衝突したのだ。
一方、関東統一を目指す後北条氏のこの地方への攻撃も間断なく行われ、天正12年(1584年)には後北条氏は足利城を攻略し、沼尻に布陣して佐野氏を脅かした。

この事態に宗綱は佐竹氏に救援を求め、それに応じて出陣した佐竹氏や宇都宮氏と連合して北条軍と対峙した。
沼尻の合戦といわれるもので、北条軍8万、佐竹軍2万が同年5月に陣を構えたが、目だった戦闘はなく、次第に厭戦気分が漂い7月に和議が結ばれた。
この間に北条氏照は唐沢山城に攻撃を仕掛けたが、このときも唐沢山城は落ちず、氏照軍は空しく退いた。
天正13年(1585年)、足利城を後北条氏から奪還した長尾顕長は、今度は館林城を北条に攻められていた。
この隙をついて宗綱は足利城攻略に向う。家臣の反対を押しての強引な出陣であったというが、宗綱は須花坂において戦死してしまった。

宗綱戦死の混乱の中、後北条氏の動きは素早く、唐沢山城に兵を向けて城を制圧し、北条氏康の六男氏忠を佐野氏を継がせた。
これにより唐沢山城は後北条氏の支城となり、天正18年(1590年)に後北条氏が滅亡するまでこの状態が続く。
なお、氏忠の城主は名目的なもので、実際に唐沢山城にあったのは城代の大貫氏であったという。
一方、北条氏忠の佐野氏の継承に反対して、昌綱の弟であった天徳寺宗衍(了伯)は佐竹家から養子を迎えることを主張したが入れられず、佐野家を出奔した。

天徳寺宗衍は、昌綱の補佐役であったが、天正3年(1575年)に佐野家を出奔し、織田信長に仕えている。
その後、滝川一益の属して関東入りした一益の補佐役として、太田氏や里見氏と一益の間の折衝役を担った。
本能寺の変で信長が横死して一益が関東から去ると、佐野氏のもとに戻り宗綱の補佐をしている。
宗衍は再度の出奔後、秀吉に接近して、天正18年の小田原征伐に加わっている。後北条氏が滅亡すると、氏忠は高野山に上り、佐野氏の旧領3万9千石と唐沢山城は宗衍に与えられ、宗衍は佐野房綱と名乗って佐野家の家督を継いだ。

名族の終焉

天正20年(1592年)9月、房綱は秀吉の側近であった富田信広の五男信種を養子に迎え、房綱は佐野氏を継いで2年ほどで隠居した。
家督を継いだ信種は、信吉と名を改ためた。秀吉没後、関東の一角の小大名であった信吉は、否応なく家康の機嫌をとり尽くさねばならなくなった。
会津征伐の際には家康軍の陣所普請をし、その後は上杉軍に備えて陣した。したがって関ヶ原本戦には参陣しなかったが、戦後本領を安堵された。
しかし関東で外様大名が生き延びることは許されなかった。慶長7年(1602年)に唐沢山から麓の春日岡への移城命令が下された。
謙信や氏康が攻めあぐねた唐沢山のような堅固な山城に、外様大名を置いておくわけにはいかなかったのだ。

新たな城は佐野城と命名され、5年の年月を費やして慶長12年(1607年)に完成し、信吉は唐沢山城を廃して佐野城に移る。
同時に新たな城下の町割も行われたが、そのわずか7年後の慶長19年(1614年)に信吉は改易となり城地を没収され、佐野城は廃城になってしまう。
改易理由は不行跡とも、兄の富田信高に連座してのものとも言われるが、実際は幕府の外様大名取り潰し政策の犠牲になったものだ。
信吉は長男久綱とともに信濃松本藩小笠原秀政に預けられ、元和8年(1622年)2月19日に赦されて江戸に移るが、同年7月15日に死去した。久綱は寛永15年(1638年)に召し出されて旗本となった。

佐野信吉 さののぶよし
1566~1622(永禄9~元和8)、幼名小吉郎、従五位下、修理大夫
下野佐野3万9千石

永禄9年に豊臣秀吉の側近であった富田信広の五男として、伊勢津で生まれる。初名は信種といい、父とともに秀吉に仕えたが、天正20年(1592年)に請われて佐野房綱の養子となり、房綱の甥で十六代当主であった宗綱の女と結婚し、同年佐野家を継いだ。
所領3万9千石のうち6千5百石を房綱の隠居領とし、残りを領した。襲封と同時に信吉と名を改め、従五位下修理大夫に叙任された。
秀吉没後は立地条件から家康に接近し、会津征伐の際には家康軍の陣所普請をした。その後は結城秀康のもとで上杉に備え、本領を安堵される。
慶長6年(1601年)養父の房綱が死去し、その隠居領を戻す。翌慶長7年に居城の唐沢山城を廃して、春日岡に新城を築いて移るよう幕命を受ける。
慶長12年(1607年)に新城が完成し、佐野城と命名移城したが、慶長19年(1614年)に改易となって城地を没収され、長男久綱とともに信濃松本藩小笠原秀政に預けられた。
改易理由は不行跡とも、兄の富田信高に連座してのものとも言われるが、実際は幕府の外様大名取り潰し政策の犠牲になったものだ。
「廃絶録」には江戸の火事を佐野から見て、早馬にて江戸に駆けつけたが、許しもなくみだりに江戸に入るなど軽率なことと咎められ改易となったとある。
元和8年(1622年)2月19日に赦されて江戸に移るが、同年7月15日に57歳で死去した。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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