歴史の勉強

文治6年(1190年)に伊沢左近将監家景が、源頼朝によって陸奥国留守職に任ぜられたことで、留守氏の歴史が始まる。
留守職とは農政や民政、財政など主に一般国務面を担当する職名で、軍事面を指揮する武官型とは違う文官型の職であった。
家景を継いだ二代目家元からは職名を名乗り留守氏となったが、やがて留守職は名目だけとなっていき、名残を名字に残すのみとなった。
戦国期には伊達氏から養子を迎えて当主とするなど、伊達氏の庇護の下で活動し、小田原征伐後の奥羽仕置では伊達家中とされ独立した大名とは認められなかった。
十八代政景は伊達政宗の信頼が篤く、そのもとで数々の戦功を挙げ、一関2万石を与えられ、その子孫は水沢伊達氏として伊達一門に列した。

陸奥国留守職として

留守氏の初世伊沢左近将監家景が陸奥国留守職となったのは、文治5年(1189年)から翌文治6年にかけて奥羽で起きた起きた大河兼任の乱(鎌倉幕府と奥州藤原氏残党との戦い)の後のことであった。
この乱ののち源頼朝は律令制を尊重しつつも、奥州の地を鎌倉政権の支配下にしっかりと組み入れるべく、地頭や御家人より上位の存在としての総奉行を置いた。
葛西清重が御家人奉行として警備など軍事面を担当し、家景を留守職に任じて国政に関する指揮命令権を付与した。

留守職の権限はあくまで指揮命令権であり支配権ではなかった。そういう意味では御家人と留守職は同格であったが、指揮命令権を持つということは平時では実質的に御家人の上位に位置することは間違いなく、そのことが留守氏発展の最大の要因であったはずだ。
その初代となった家景は、一説には藤原道長の兄である関白藤原道兼の後裔であるといわれ、北条時政の推薦で文官として鎌倉政権に仕えていたという。
留守氏がその職名を名乗りに伊沢から改姓するのは二代家元のときとされる。このころの留守氏の惣領は高用名と呼ばれた国府多賀城周辺で、その居城は利府あたりと推定されている。
高用名(たかもちみょう)とは国府用の名すなわち国府に付属する名の意味で、国衙の在庁官人によって開発された名田のことである。

「別当法蓮寺記」によれば、留守氏はまた陸奥国一ノ宮でである塩竈神社の奉幣祭祀を勤めたと記され、塩竈神社の神主であった。
そのために社官たちは留守氏の家臣として扱われ、また社領から得られる収入もまた留守氏の経済を支えたと思われる。
しかし三代家広のころになると、次第に留守職としての権限は名目だけで実質的に機能しなくなったようだ。
これは周辺地頭が独立に目覚め、それと比例して留守職としての威令がいきわたらなくなったのではなかろうか。
これは留守職の根本である権威が低下したことを意味し、そうなれば留守氏は周辺地頭と同格の単なる一地頭に過ぎなくなっていった。

不遇の時代

その後四代恒家から家信、家助と続くが「塩竈神社文書」に神主としての活動記録が残るだけで事績や行動は不明である。
南北朝期には留守三郎左衛門尉が南朝にしたがい、各地を転戦して功を挙げたが、のちに北朝に転じている。この三郎左衛門尉は七代家高のことではないかといわれている。
八代家次のときに岩切城合戦が起きた。岩切城合戦とは観応2年(正平6年、1351年)にともに奥州探題であった畠山高国と吉良貞家の間に起きた争いで、足利尊氏と直義の間に起きた騒擾である観応の擾乱が、奥州にも波及したものであった。
留守氏は尊氏方の畠山高国に与したが、合戦は吉良側の大勝に終り、畠山高国は子の国氏とともに討たれた。

家次も新田城および虚空蔵城に籠城したが敗れ、留守一族である余目氏や宮城氏ともども全滅に近い打撃を受け、留守一族は一気に衰退する。
留守一族の余目氏は四代恒家の弟が別家した系統で、中世における諸大名の動向を知る資料として有名な余目記録を残しており、一時は宗家を凌ぐ勢いで栄えた。また宮城氏は初代家景の弟家業を祖とする系統である。
文和元年(正平7年、1352年)12月に、留守松法師が足利尊氏から宮城郡などで所領を与えられて留守氏は勢力を盛り返す。
この留守松法師は余目系の人物で、宗家が所領を安堵されたのは、文和3年(1354年)頃とされる。しかし、その所領はかつては7百郷といわれたものが、名取・宮城120郷と大きく減少したという。居城は高森城(岩切城)であった。

宗家の九代は淡路守、十代は弾正少弼というが、いずれも実名も事績も不詳である。十一代家明は再び畠山氏と吉良氏の争いに巻き込まれたが敗れ、応安5年(文中元年、1372年)には奥州探題大崎氏の支配下に入った。
その後留守氏の間には家督を巡る争いが起きたようだ。十二代詮家は応永年間中ごろに、家老職を勤める一族の村岡氏の家督相続に絡む騒動に巻き込まれて大崎氏から自刃を命じられている。
そして十三代持家は弟の三郎二郎との間で家督を争ったという。持家は伊達氏を、三郎二郎は大崎氏をそれぞれ頼り3年間に渡る抗争が続き、最後は持家が勝利するが、これ以後伊達氏から内政干渉を受けることになった。

伊達氏の一門へ

持家には実子満家がいたが、満家は余目家を相続し、宗家の十四代は伊達氏十一代持宗の五男郡宗(くにむね)が養子に入って相続した。
郡宗は明応4年(1495年)に高森城で没し、その子の藤王丸が継ぐが、藤王丸は明応9年(1500年)いわずか10歳で死去してしまう。
留守一族は伊達氏十三代尚宗の二男景宗を十四代郡宗の女に配して十六代として迎えた。留守氏は伊達氏の完全な支配下にあったといってよく、伊達氏の意を迎えることで命脈を保つしかなかったのである。
陸奥国南部では伊達氏の勢力は抜きん出ていたが、このころには国人領主も力をつけ、群雄割拠の様相を呈し、いよいよ戦国期の幕が切って落とされた。

留守氏の仇敵は同じく宮城郡の地頭であった国分氏であった。留守氏と国分氏は岩切城合戦以降、対立が激しくなり、永正3年(1506年)ころには小鶴方面で武力衝突も起きた。
伊達氏の天文の大乱(伊達稙宗と嫡子晴宗の親子間の武力衝突)では、景宗は晴宗方に与して稙宗方の国分氏と合戦となっている。
天文17年(1548年)に天文の大乱は終息し、伊達氏の家督は晴宗が継いだ。晴宗に与していた景宗は伊達氏と密接な関係となるが、それは同時に留守氏が伊達氏の傀儡となることを意味した。

天文23年(1554年)5月に景宗が没し、嫡子顕宗が十七代となったが、顕宗は病弱であった。顕宗のときには国分氏との抗争や一族の村岡氏の抗争が起きている。
顕宗は天正14年(1586年)7月に死去した。顕宗の嫡子宗綱は高城家に養子に入っており、伊達晴宗の三男政景を養子に迎えて留守氏十八代とした。
この家督相続の際に留守家臣団では外様家臣団が政景を養子に迎えて伊達家との中をより強固にして家の安定を図るべきとしたのに対し、余目、村岡など譜代家臣団は反対して、家中は二派に分かれて争ったという。

結局政景が十八代となったのだが、この内紛が尾を引いたのか、永禄2年(1559年)には村岡氏が叛旗を翻した。
政景は村岡氏が籠る村岡城を攻めてこれを降し、村岡氏は滅亡した。しかし反乱はそれで収まらず余目氏や佐藤太郎左衛門父子ら譜代家臣が叛旗を挙げ、いずれも政景から追放されている。
政景はその後、天正2年(1574年)に米沢を訪れて伊達氏のもとに属し、以後主戦力の一員となって各地を転戦て功を挙げる。伊達政宗の信頼も篤く、政宗飛躍の原動力としても貢献した。
政景は政宗の転封にともなって金ヶ崎城、水沢城と移り、政景の嫡男宗利からは伊達氏を称して、仙台藩の体制に組み込まれた。

参考文献:戦国大名系譜人名事典東国編(新人物往来社)、中世奥羽の世界(東京大学出版会)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

武家・大名録の表紙に戻る
歴史の勉強

Last modified -