歴史の勉強

石見最大の豪族

関白藤原忠平の子孫九代国兼(定通とも称した)は、永久2年(1114年)石見国司として下向したが、任期終了後も帰京せず、石見国上府の御神本(みかもと)の地に土着して、御神本姓を名乗るようになった。
この御神本氏が益田氏の祖である。御神本氏が上府の地にあったのは、国兼‐兼真‐兼栄の代までで、石見安国寺には三代の墓と伝えられる古墳が残っているという。次の兼高(兼恒)の代に、御神本氏は本拠を益田郷に移した。
元暦元年(1184年)2月、源義経は一ノ谷の合戦で平家を海に追ったが、その3ヶ月後の5月に御神本兼高は、源頼朝から石見国押領使に任ぜられた。
これを受けて義経は石見国の御家人に対して、押領使兼高に従って平家を追討するように命じた。

そもそも石見国をはじめとする西国諸国は、ことごとく平家方であったのに対し、兼栄、兼高は唯一といっていいほどの源氏方であった。
同年11月、頼朝は兼栄、兼高の功に報い所領を安堵したが、御神本氏の所領は鹿足郡を除く石見国全域にわたっていて、すでに御神本氏が相当の勢力であったことがうかがわれる。
藤原氏という名門貴族が国司として下向土着し、権力を背景として有力豪族に成長し、私領を拡大していった典型ともいえる。
兼高は義経に従って壇ノ浦の戦いにも功を挙げ、本拠の移動に合わせて益田氏を名乗るようになった。

益田に入った兼高は、建久4年(1193年)に七尾山上に城を築いた。現在の益田市街の南縁にあたる七尾山は、標高120mほどであるが、急峻な地形であり、その山上に築かれた七尾城は石見屈指の堅城として関ヶ原役後に益田氏が退去するまで、その本拠であった。
また、このころは惣領相続制ではなく、世代交代のたびに庶子家にも所領が分割された。すなわち兼高の二男兼信は三隅郷や永安別府を領して三隅氏を名乗り、三男兼広は跡市郷福屋を得て福屋氏を称した。
さらに兼高の跡を襲った兼季の庶子たちは、兼定が周布郷に拠り周布氏を、兼直が末元氏を、兼註が丸茂氏を、兼政が多根氏をそれぞれ称した。
これら庶子家は宗家の塀として石見各地に居住し、益田一族は石見最大の勢力を誇ることとなった。

南北朝期の益田氏

しかし時代を経るにしたがって三隅、福屋、周布氏などは独立性が強くなり、宗家と地理的に隔たりがあることと相俟って、独自の領主的な行動をとるようになっていく。
一方、南北朝期以降に所領を分与された大草、遠田、波田、山道、多祢などの庶子家は、益田郷内に所領を与えられており、独立性は低く、実質的に宗家の支配下にあったようである。
いずれにせよ兼高‐兼季、さらにその嫡流である兼時のころの益田氏は、庶子家を動員できる力を持っており、弘安の役に際して時の当主兼時は三隅、福屋氏らに命じて沿岸に砦を築かせ要地を固めさせている。

兼時の跡は兼長とも兼久ともいうが、2人とも早世して家督を継がず、一族の兼弼が継いだともいわれている。このように系図が混乱しているが、このことから家督争いがあったともいわれている。
元弘3年(1333年)、鎌倉幕府が滅び天皇親政の時代となるが、建武2年(1335年)にそれを不満とする足利尊氏の蜂起によって、世は南北朝時代となった。
石見国でも南北に分かれての内乱状態となり、益田宗家は北朝に与した。この時代の益田の当主は兼見であった。一方、庶子家の三隅兼連、周布兼宗、福屋兼行などは南朝方となり、一族が南北両派に分かれて争うこととなった。

兼見は当時の石見守護上野頼行とともに、南朝方の拠点であった豊田城を攻めて、日野国光、高野長幸らを敗走させ、次いで高津城、穂積城など南朝方の諸城を陥した。さらに福屋城を攻めるなど、南朝軍と石見国内各地で戦い活躍している。
室町幕府の草創期、足利尊氏と直義の兄弟による二頭政治が行われたが、やがて尊氏側近の高師直が権勢を増すと、直義と師直の対立が目立つようになった。
この対立は師直が楠木正行敗走させるなど軍功を挙げる一方、直義が尊氏の庶長子でありながら尊氏に疎まれていた直冬を養子としたことで、尊氏・師直対直義・直冬という構図となり、一層深刻化していった。

このようななかで貞和5年(1345年)4月に、直義は直冬を中国探題職につけた。その後、直義と師直の対立は決定的となり、やがて尊氏、直義兄弟が相争う観応の擾乱が起こる。
兼見は直義方に与して、中国探題である直冬に属して各地を転戦した。石見守護大内弘世による「益田兼見軍忠状」によれば、その戦いは石見から安芸、周防に及んだ。
しかし直冬が衰退し、守護大内弘世が尊氏方に転じると、兼見も尊氏方つまりは北朝勢力の一員となった。永和4年(1378年)に兼見は家督を嫡男の兼世に譲り、明徳2年(1391年)に没する。

兼世と兼堯

一方、石見守護の大内家は弘世から義弘の時代となり、勢力を拡大して室町幕府でも重きをなした。三代将軍足利義満はこの義弘の勢力拡大を喜ばず、やがて義弘を挑発した。
義弘は幕府の態度の疑念を抱き、応永6年(1399年)10月に泉州堺で反乱を起こす。応永の乱とよばれるもので、兼世も義弘に従って堺に出陣し、多くの配下武将を失っている。
義弘は戦死し、その子の持世は降伏したが、義弘の弟盛見は幕府への対抗姿勢を維持した。幕府は盛見の弟弘茂を西下させて盛見を攻撃させ、兼世にはその援助を命じた。
盛見は九州に逃れ、豊後の大友氏の支援を受けて、応永8年(1401年)12月に長門に上陸して弘茂を倒した。盛見は各地に転戦し、その地位はゆるぎないものとなり、やがて幕府は盛見の家督を認めざるを得なくなり、兼世も盛見に従うようになった。

兼世は、応永14年(1407年)正月18日に没し、家督は子の秀兼が継いだ。幼名を長寿丸といい、兼家とも称した秀兼だが、応永26年(1419年)3月12日に死去し、その子の兼理が家督となった。
永享3年(1431年)に大内盛見は豊前・筑前守護職をめぐって豊後の大友氏と対立し、筑前に侵攻した。この戦いに兼理は子の常兼とともに加わったが、筑前深江における合戦で戦死してしまう。このとき大内盛見も戦死を遂げた。

益田氏は惣領と主君を同時に失ったわけで、その家督は幼少であった兼堯が継いだ。永享10年(1438年)に和泉・大和の合戦で軍功を挙げた兼堯は、将軍義教から屋形号を許され、嘉吉の乱で義教が赤松満祐に暗殺されると、幕命によって赤松方の美作高尾城を攻めた。
宝徳3年(1451年)に吉川経信とともに伊予の河野通春を、やはり幕命によって討伐し、享徳4年(1455年)に肥後国の一揆鎮圧に出動した。寛正2年(1461年)には河内に出陣して、諸将とともに畠山義就を攻略した。
翌寛正3年に兼堯は、子の貞兼に家督を譲るが、文明17年(1485年)に死去するまで貞兼を後見した。

応仁の乱

貞兼の時代は応仁の乱で幕を開けた。将軍義政の後継をめぐって幕府管領細川勝元と実力者の山名宗全が対立し、管領家の斯波、畠山両家の家督争いも絡み、諸大名が東(細川)と西(山名)に分かれて争ったのが応仁の乱である。
この当時の石見守護山名政晴は一族の宗全に与した。また周防の大内政弘も西軍であり、益田氏はじめ石見のほとんどの諸将も西軍に属した。貞兼は大内政弘の軍に加わって摂津に転戦した。
ところが応仁の乱は諸将の家の家督をめぐる対立が絡み、複雑な様相を帯びており、大内家でも政弘の叔父教幸は東軍に与し、政弘軍と合戦を繰り広げた。益田兼堯も必ずしも諸手を挙げて西軍に与したわけではなく、東軍にも家臣を通じていたようだ。

文明2年(1470年)に将軍義政は兼堯に対して、大内教幸と連帯して備後、安芸、周防を攻略するよう命じている。一方では、義堯・貞兼父子は大内政弘とも通じており、やがて教幸を攻め始める。
教幸方には吉見信頼はじめ三隅氏、周布氏ら石見の国人のほとんどが加担していたが、貞兼は吉見氏らと戦い、ついに教幸を九州に追い落とした。翌文明3年に大内教幸は、豊前馬岳城で自刃した。
大内政弘は山名政清のあと石見守護となり、これら一連の動きによって石見における益田氏の地位は大いに高まった。応仁の乱での益田氏は、山名一辺倒ではなく、ときとして東軍に通じるなど柔軟かつ深慮に行動し勢力の拡大に結び付けたが、石見におけるもう一方の雄である吉見氏との対立は決定的となっていった。

大内氏とともに

貞兼は大永6年(1526年)に死去し、その跡は宗兼が継いだ。宗兼の代には大内氏との関係はより強固になっていった。永正4年(1507年)にときの大内氏の当主義興が、前将軍足利義尹(義稙)を奉じて上洛すると、宗兼は子の尹兼とともにこれに加わっている。
このころには足利将軍家は有名無実となり、有力諸将の勢力争いの具とされていたのである。世はまさに乱世であり、戦国であった。義興に従って上洛した宗兼・尹兼父子は11年間にわたって在京し、義興を援けた。

義尹は将軍に復帰して義材と名乗り、義興は管領代に任じられた。永正5年(1508年)に船岡山の合戦が起きると宗兼は、大内軍の中核として出陣し軍功を挙げ、将軍義材は嫡男又次郎に尹の一字を与えた。尹兼と名乗るのは、このときからであった。
しかし世は確実に実力主義の時代となっており、もはや将軍の偏諱など何の意味もなくなっていた。石見においても国人らが台頭して、戦国時代に突入していった。尹兼は京から帰国すると益田七尾城を固め、三隅氏ら国人領主の侵攻を退けた。

このころ東隣の出雲では尼子氏が戦国大名化に成功していた。尼子氏の軍事行動は積極的で、大内義興も尼子の勢力拡大を危惧して帰国するほどであった。以後、中国地方西部では、大内・尼子の二大勢力による戦国乱世がしばらく続くことになる。
尹兼は永正15年(1518年)、大永6年(1526年)に大内方として尼子氏と戦った。さらに天文8年(1539年)に尼子晴久が石見に侵攻してくると、尹兼はこれを退けた。翌天文9年にも晴久は再び石見を攻め、尹兼は周布武兼、三隅隆兼らと連帯して、これを撃退している。
大内義隆が天文11年(1542年)に尼子氏の本拠である月山富田城攻略の軍を起こすと尹兼はじめ石見国人衆は、大内氏に属して出雲に侵攻した。しかしこの攻城戦は失敗におわり、天文12年(1543年)に大内義隆は海路周防に敗走し、嫡男晴持を失った。これを機に義隆は軍事を嫌い、公家文化に傾倒していく。

大内氏の滅亡

益田氏は大内・尼子の狭間にあって、大内氏に属しながら尼子を牽制していくこととなる。一方、尼子氏も新宮党とよばれる一族を晴久が討つなど、政治が不安定であり、また晴久の目は備後・安芸に向いており、石見においては大森銀山を大内氏と争うなど、直接に益田氏を脅かさなかったことは益田氏にとって幸いであった。
この間の永禄8年(1565年)9月に尹兼は死去し、嫡男藤兼が家督となった。藤兼は周布氏、三隅氏らもともとの益田一族を傘下に収めて勢力を拡大していく一方で、津和野の吉見氏とは対立を深めていった。

天文20年(1551年)大内氏に転機がおとずれた。軍事を倦み、奢侈文弱に流れていった大内義隆が重臣陶隆房(のちの晴賢)の叛乱によって、自刃させられたのである。軍事、政治を顧みなくなった義隆の家臣たちが、陶隆房を中心とする武断派と相良武任を中心とする文治派に分かれての抗争の結果であった。
益田氏は兼堯のころから陶氏とは姻戚関係にあった。兼堯の娘が陶弘護に嫁ぎ、大内教幸の乱に対して兼堯、貞兼父子は弘護を支援して、教幸の乱の平定に寄与している。また藤兼の父尹兼も陶興房(隆房の父)と兄弟の契りを結んでいた。

これらのこともあって藤兼は大内氏の内乱では、隆房に与した。一方、津和野の吉見正頼は義隆の姉を正室としていたこともあって隆房を非難して、これに抗った。藤兼は隆房の挙兵を聞くと吉見氏攻略に動き、その本拠である津和野三本松城や吉見一族の下瀬氏の拠る下瀬城を攻めたが、失敗に終わった。
隆房は大内義隆を自刃させると豊後の大友氏から晴英を迎えて義長と改名させ、大内氏の跡を継がせ、自身も晴賢と名を改めた。やがて体制を整えた大内義長・陶晴賢軍は吉見氏攻撃の軍を起こし、津和野三本松城を囲み、吉見正頼を降伏させた。
しかし今度は安芸の毛利元就が挙兵して義長・晴賢に抗い、晴賢を厳島に誘い込んで自刃に追い込んだ。吉見正頼も元就に呼応して兵を挙げ、山口を目指した。攻守所を変えた結果、藤兼は七尾城に入り急ぎ戦備を整えた。大内義長は弘治3年(1557年)4月に自刃して名族大内氏は滅亡し、元就の軍は益田藤兼を攻めた。

毛利家臣として

元就の次男吉川元春は益田領に進軍して支城を制圧していったが、藤兼の資質を惜しみ、元就に対して本貫地安堵を条件にして益田氏を降伏させ、吉見氏への抑えとすることを献策した。
元就の同意により元春は藤兼に降伏を勧め、藤兼も決断して、以後益田氏は毛利氏に服属することとなった。藤兼は、吉川元春に属して東石見や北九州に転戦し、元春の娘を嫡男元祥の室に迎えて姻戚関係を結んだ。

元祥は藤兼の跡を継ぐと吉川元春に従い、さらに元春の死後は吉川広家に従って活躍した。文禄の役では碧蹄館の戦いで、慶長の役では蔚山城の戦いで、それぞれ功を挙げている。
元祥は毛利家の中でも重きをなし、天正19年(1591年)には石見において1万2千石を領していた。徳川家康も元祥の文武兼備の質に注目していたという。関ヶ原役において毛利氏は西軍に属して敗れ、防長二州に押し込められた。

このとき益田氏も本拠を失うこととなったが、家康は大久保長安を介して石見の所領を保証するとの条件で、徳川家に仕えるよう勧誘した。しかし元祥は、毛利氏の恩義を理由にこれを辞退した。
この話を聞いて毛利家の当主輝元は感激して、慶長6年(1602年)に千石を加増した。益田氏は長門国阿武郡須佐の地に移り、毛利家の一族に準じる永代家老家として続き、明治33年(1900年)には男爵を授けられ華族に列した。

参考文献:戦国大名系譜人名事典西国編(新人物往来社)、中国の名族興亡史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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