歴史の勉強

名族厚東氏

平安時代から室町時代初期にかけて、長門国厚狭郡東部を勢力圏とした豪族厚東氏は、南北朝期には四代にわたって長門国守護となり最盛期を迎えた。
厚東氏の系図はいくつかあるが、そのいずれもが出自を物部守屋の後裔としている。
蘇我馬子との権力闘争に敗れた物部守屋の子の武忠が罪に問われて、長門国厚狭郡棚井に流されて「厚東郡本主」を称したのが厚東氏の始まりとするのだが、「長門国誌」ではその死を白鳳14年(686年)としている。
これでは守屋の死から100年近くたっていることになってしまい親子ではあり得ず、また厚東氏七代の武光が平安末期から鎌倉時代初期の人物であることからも、武忠を守屋の子とするのは無理があり、武忠は平安時代に入ってからの人物とするのが妥当とされる。

この厚東氏が、在地豪族から武士化したものとするのか、赴任国司が地方豪族化したとするのかはともかくとして、物部氏の後裔であるとの伝承は鎌倉時代からあったようである。
どちらにせよ厚東氏の出自は、はっきりとしたことはわかっておらず、物部氏後裔説も不確実といわざるを得ない。しかし平安末期には長門国厚狭郡東部で一定の勢力を持っていたことは間違いない事実である。
厚東氏系図によると、二代武基は厚東大夫を称し、大化3年(647年)に上洛する途中、備後国恒石の海岸で八幡大菩薩の御神体を得て、帰国後に厚狭郡総鎮守として棚井に祀り恒石八幡宮と名付けたとするが、年代的に無理のある話である。
武基の跡を継いだのは武通で、いくつかあるいずれの系図も武忠、武基、武通の三代を「霊神也」として神格化している。

四代武綱は白松大夫と称し、武綱の5人の子供が近接する各地に在して領主化したと伝える。武仁が本貫の棚井を継承して五代となり、武遠が周防国(吉敷郡内か?)、武俊が美祢郡、武方が豊西郡、永綱が周防国吉敷郡白松をそれぞれ勢力圏としていった。
武仁の跡の六代武晴は厚東小大夫を、七代武光は厚東郡司を名乗った。武光は霜降山に城を築き、源平の戦で寿永3年(1184年)に平氏が一の谷城を構えたときに馳せ参じている。
当時、西国一帯は平氏の勢力圏であり、長門はその重要な根拠地であったことから、武光が平氏に与するのは当然であったが、文治元年(1185年)に平氏が衰退すると、厚東氏も周防の有力豪族大内弘盛らとともに源氏に鞍替えした。
武光は長府串崎の船頭衆を源氏方に斡旋して、壇ノ浦合戦の勝利に貢献したとされる。

長門守護へ

次の八代武景も厚東郡司となり、承久年間(1219~21年)に鎌倉で没したという。このことは武景が鎌倉幕府の御家人となっていたと考えられる。
次の九代武能は厚東小大夫と称して、「吾妻鏡」によれば豊田氏と並んで、長門国内最大の豪族となっていたらしい。
その後、武朝-武時-武政と継いで、十三代武仲は周防の大内氏とともに弘安の役に出陣し、元軍と戦った。
この間、武景の子の景盛の系統は富永氏となり、厚東氏がのちに長門守護となったときに守護代として補佐している。
武能からは原、柳などの庶家が、武時からは秋吉、木村などの庶家が出ており、一族として勢力を伸ばしていった。

十四代武実は鎌倉幕府滅亡から室町初期にかけての当主で、その活躍ぶりから名将といわれる。
防長両国は鎌倉時代には長府に置かれた長門探題の支配下にあった。このため後醍醐天皇が反幕の旗を挙げても、武実は幕府方に与していた。
倒幕に失敗した後醍醐帝は隠岐に配流されるが、その後脱出して伯耆国船上山に拠って倒幕の綸旨を発する。
石見国の豪族吉見頼行はこの綸旨を奉じ、その七男高津入道道性が長門に入り、長門探題北条時直と対した。
時直方主力は武実や豊田種長・種藤父子であり、元弘3年(1333年)3月29日に道性軍との戦いとなった。

ところが武実は戦いの最中に道性軍に寝返り、探題軍はこれが為に苦戦となって敗れ、ついには探題館を捨てて逃走した。
やがて鎌倉幕府が滅びると武実は、その功績によって建武元年(1334年)に長門国の守護となり、その子の武村には豊前国企救郡が与えられた。また前述の富永氏の武通が長門守護代となった。
しかしながら建武の新政は武士の世界では不評であり、不満が高まった。倒幕と後醍醐新政府樹立の功労者である足利尊氏も例外ではなく、翌建武2年に尊氏は鎌倉で後醍醐帝に叛旗を翻し京に攻め上った。
建武3年(1336年)尊氏は京に入ったが、敗れて兵庫に逃げ、さらに九州に向かう。この時、兵庫から九州に兵船200艘余りで尊氏を落としたのが武実と大内長弘であった。

すでに長門守護であった武実は、九州の尊氏から改めて長門守護に任じられ、その後の尊氏の上洛に従っている。
特に石見国には数度出陣して、南朝方の武士と戦っている。貞和3年(1347年)から翌4年にかけての四条畷の戦いにも武実は参陣しているが、その戦いのさ中に病を得て、貞和4年3月5日に武村に守護職を譲り、同年11月9日に京で死去した。
厚東氏が有力地方豪族から長門守護となり得たのは武実の功績によるところで、これが名将とされる所以であるが、このほか本貫の棚井に東隆寺、浄名寺、茂福寺を創建して、文化の発展にも大きな業績を残している。

大内氏との確執

武実の跡を継いだ十五代武村は、父武実とともに鎌倉時代末期から多くの戦に参じて活躍した。
一方この頃足利氏内部では尊氏と弟の直義の間に対立が生じ、観応の擾乱と呼ばれる武力衝突に発展する。
尊氏は鎌倉幕府に倣い長門探題を置き、尊氏の子で直義の養子になった直冬を任じたが、直冬は観応の擾乱に否応なく巻き込まれることになる。
直冬は当然の如く直義方につき、長門国内で厚東氏に次ぐ有力豪族豊田氏が直冬を支持した。一方、武村は尊氏支持で、両者は激しく対立した。

武村は子の武直を九州探題一色範氏の応援に向わせ、直冬に味方する少弐頼尚に備えたが、突然死去してしまう。
武直が後継となり九州より急遽帰国して長門国府に入った。武直は豊田氏の一族豊田種本の攻撃を退け、さらに関門海峡を挟んで直冬方の細川清氏や門司親胤と戦った。
文和元年(1352年)2月に直義が死去すると直冬方の勢力は衰え、直冬は九州を去って長門に移り南朝方に降る。
厚東氏とは相変わらずの敵対関係にあったが、直冬の力は急速に失われ周防に去った。一方武直も同年11月に急逝し、その子の義武が跡を継いだ。

義武には幸政という弟がいたが、兄弟の間で対立が起こり不和となった。この不和を受けて家臣の間でも反目があり、このために政治は乱れた。
一方直冬が逃げた周防の守護大内弘世は南朝方で、厚東氏の様子を見て文和4年(1355年)以降、長門に攻撃を繰り返した。
義武はこれに抗えず、延文3年(1358年)正月2日霜降山城を落ち、厚東の地を去って豊前国企救郡に逃げた。
長門守護には大内弘世が任じられたが、義武は守護復帰を目指して長府に戻り、四王司山に籠って抗戦したが、弘世に攻められて再び企救郡に逃げ去る。
幕府はこれを見て大内弘世に防長両国の守護を認める代わりに北朝への転向を働きかけ、弘世はこれを入れて北朝方に転じた。

この幕府の処置に義武は憤慨して南朝方に転向し、九州の南朝方の雄菊池氏や名和氏などの援けを得て、長門回復の戦いを起こす。
一方弘世も貞治3年(1364年)に先手を打って豊前に兵を出したが、菊池氏らの反撃にあって大敗し、厚東氏に長門を返還する条件で和睦した。
しかし弘世には長門返還の約定を守る意思はなく、この違約に義武は怒り、それ以上に菊池氏当主の武光が怒った。
菊池軍は6千余り騎で長門に攻め入り大内軍に猛攻をかけ、大内軍はその勢いに押されて周防に押し戻された。
長門国から大内氏は駆逐され厚東氏は長門に復帰したが、これは一時的なものに過ぎず、貞治5年(1366年)に弘世は長門に進撃し大内軍対菊池軍の間で大規模な戦闘が起きた。

海峡を背にし、しかも長期間遠征している菊池軍は、広く後背地を持つ大内軍に徐々に押されていった。
さらに菊池軍にすれば、いつまでも本拠地を留守には出来ない。これらのことが相俟って大内軍が次第に有利になる展開となった。
厚東氏はこの頃から急速に衰えを見せ、応安元年(1368年)以降は、その名さえ記録から消えてしまう。
厚東氏の消息は途絶え、義武の最期も一切不明であり、物部守屋の後裔を唱える名族厚東氏は歴史からひっそりと姿を消した。

参考文献:室町幕府守護職家事典(新人物往来社)、守護・戦国大名事典(東京堂出版)、大内興亡(古川薫・山口新聞社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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