歴史の勉強

大宝寺氏の本姓は藤原氏で、藤原道長の後裔という。武蔵国に本拠を持ったことで武藤氏を称するようになり、頼平のとき治承・寿永の乱で源頼朝に与して功があり、また二男の資頼は奥州藤原氏討伐で活躍した。
それらの恩賞としてに出羽国大泉庄の地頭となったが、資頼は太宰少弐として九州に移り、大泉庄地頭は資頼の弟氏平に譲られた。
この氏平が大泉氏を名乗り、のちに五代長盛が大宝寺(鶴岡)に本拠を構えて大宝寺氏と称するようになった。ちなみに九州に下った資頼は少弐氏となった。
大泉庄は現在の鶴岡周辺から赤川流域、藤島町、三川町、羽黒町、櫛引町などに広がる広大な地域で、庄内と通称されるようになる肥沃な平野部である。

庄内地方の有力国人へ

庄内では、南北朝期に大泉平九郎が奥州管領斯波氏のもとで各地を転戦していたが、康安元年(1361年)に大泉庄は越後守護上杉憲顕に与えられた。
これ以後大宝寺氏は上杉氏との関係を深めていくことになる。上杉氏も同地の代官として大宝寺氏に支配させたようである。
大宝寺氏は着々と庄内地方で実力を付け、日本海の交易まで押さえるようになった。寛正3年(1462年)、大宝寺淳氏は幕府から出羽守に任じられた。
そのためには幕府に莫大な貢物を贈ったというが、それだけの貢物を贈れるほど実力を持っていたのだろう。

藤島城主土佐林氏を被官化したのもこのころであった。土佐林氏は羽黒山別当職でもあった。淳氏の孫の政氏の代には、土佐林氏から羽黒山別当職を譲り受け、羽黒山支配権を手に入れた。
羽黒山は月山、湯殿山と並ぶ出羽三山の一つで、山岳信仰の中心であり、山伏勢力があった。
羽黒山の支配権を手に入れた大宝寺氏は、その別当としての権威を背景にして、勢力の拡大を図っていった。
大宝寺氏は政氏の代から一族である土佐林氏や砂越氏を従え、庄内一円を制圧し戦国大名への道を歩み始める。その過程で最上氏と衝突するのは必然であった。
そのころから大宝寺氏と一族の砂越氏との関係が険悪化していた。大宝寺氏も最上氏同様に惣領制の崩壊に見舞われたのだった。
一族の砂越氏が独立傾向を示し、永正4年(1507年)に隣国越後で起きた永正の乱により上杉氏の庄内への影響力が弱まると、砂越氏の独立傾向が強まったのだった。

砂越氏との対立と庄内の統一

砂越氏は最上川河口北岸の砂越城に拠り、坂本、枡田、三栗屋、田沢などの一帯を領していた。
永正9年(1512年)に、ついに砂越氏の当主氏雄が越後の長尾為景と結んで、大宝寺氏に対して兵を挙げた。
氏雄は大宝寺澄氏(政氏嫡男)の守る東禅寺城(酒田)を攻め、大宝寺氏を敗走させたが、翌永正10年には逆に大宝寺澄氏に敗れ氏雄は討ち取られてしまう。
砂越氏雄の跡は氏維が継ぎ、天文元年(1532年)に土佐林氏の藤島城を陥落させ、さらに大宝寺氏を攻めた。その結果大宝寺城下は焼き払われて、大宝寺氏は尾浦城に入った。

大宝寺氏は越後の上杉定憲に救いを求め、定憲は本庄氏に大宝寺・砂越両氏の調停をさせ、両氏は和睦したが、すぐに和睦が破れ大宝寺氏の勢力は後退の一途を辿る。
大宝寺氏がその後勢力を盛り返すのは義氏の代になってからだった。義氏はその父義増とともに上杉謙信の庇護下に入ることにより庄内地方で力を得た。
国人たちの反乱には上杉氏を間に入れて和睦をし、和睦が敗れるとその間蓄えた武力で制圧し、ついに庄内地方を統一した。その過程で敵対していた砂越氏も大宝寺氏の傘下に降ったようである。
庄内を統一した大宝寺氏は北進策をとった。由利郡に侵入し上杉氏の力を背景に由利郡内の国人を降し、そのほとんどを領したが、これは当然に秋田の安東愛季との間に戦闘を生んだ。

最上義光の庄内進出と義氏の死

大宝寺氏は安東氏と戦闘を繰り返したが、大宝寺氏を巡る環境が大きく変わり始めた。まず後ろ盾となっていた上杉謙信が死去し、ほとんど時を同じくして最上義光が庄内進出を図りはじめた。
義氏は由利郡で安東氏と戦う一方で、東方からの最上氏に対しても戦わざるを得なくなったのである。
義氏は最上氏に対抗するために、天下人であった織田信長に馬や鷹を献上し、これによって信長から屋形号を許される栄誉を受けている。
大宝寺氏が庄内を制圧した頃、最上氏は鮭延氏の拠る鮭延城を攻略し、最上郡内に着々と版図を広げつつあった。城を追われた鮭延氏が頼ったのが大宝寺氏であった。
天正10年(1582年)、大宝寺義氏と最上義光の戦いの最前線は最上川中流の清水城(大蔵村)であった。
ここは酒田で捌かれる日本海の交易品を舟運により最上領に運ぶための陸揚げ中継地であり、最上氏の重要な拠点であった。清水城の当主は清水義氏であったが、義光は三男義親を養子に入れていた。大宝寺氏の清水城攻撃は日増しに激しくなっていった。

義光は大宝寺に対して謀略をもって臨んだ。義光が目をつけたのは砂越氏であった。砂越氏当主の也足軒は大宝寺氏と干戈を交える安東愛季の義父でもあった。その微妙な立場を利用することにしたのだ。
砂越氏を通じて安東氏と連絡を取った義光は、安東氏と連携して大宝寺氏を攻め、北と東から挟撃した。さらに大宝寺氏の重臣たちに謀反を勧めた。また、鮭延秀綱を調略し、本領復帰を条件に寝返らせることに成功した。
翌天正11年(1583年)、大宝寺氏と安東氏の間で大規模な合戦があり、一進一退の攻防を続けていたが、3月突然に大宝寺義氏は館を国人たちに囲まれた。謀反であった。
義氏は悪屋形と呼ばれて日ごろから悪逆の限りをつくしていたといい、民心も離れており、強引な勢力拡張を目指した戦闘に国人たちが反発したのであろうが、裏では義光が謀略によって重臣たちに反乱を勧めていたことは間違いないであろう。

義氏は自害して果て、跡を義興が継いだ。義興は一時期最上義光と和睦して、義光の力を頼ったが、すぐに義光の元を離れ越後の上杉景勝を頼った。
一方で義氏の近臣であった前森蔵人は義氏への謀反の中心人物であったが、義氏自害後は義光の被官となり東禅寺城に入って東禅寺義長を称した。大宝寺義興は東禅寺義長と当然の如く対立した。
天正13年(1585年)になると大宝寺義興は最上領の清水城を攻めた。この年の暮れには大宝寺氏と東禅寺氏の争いは激化し、東禅寺氏は義光に援軍を求めてきた。
一方、大宝寺氏には越後の本庄繁長の援軍が加わった。これは、大宝寺氏が最上氏に服属することはなく、上杉氏につくことを選んだことになる。さらに大宝寺義興は本庄繁長の二男義勝を養子に迎えた。

東禅寺氏との戦いと大宝寺氏の終焉

翌天正14年(1586年)最上軍は飽海郡、大宝寺軍は田川郡を確保したが、この段階で双方から和睦の動きが出てきた。
その調停をしたのは伊達政宗であった。政宗の仲介で最上・大宝寺の争いは一応終息を見た。
しかし、翌天正15年(1587年)の年明け早々、再び庄内で大宝寺氏と東禅寺氏の争いが勃発する。これに対し再び政宗の調停が行われ、同年8月に和睦がなった。
ところが二ヶ月とたたないうちに東禅寺筑前が義興に対して攻撃ののろしを挙げる。政宗の調停は完全に失敗した。

政宗はこの時期、会津の葦名と常陸の佐竹の連合軍対策、相馬義胤の反政宗への動きの対応など多忙を極めている。義光はそれを見て、山形と米沢の中間にある鮎貝城(白鷹町)主の鮎貝宗信を誘って政宗に叛かせた。
政宗の動きはすばやく、宗信を攻めたが、周囲の情勢からそれ以上の行動には出れず、義光はその隙をついて自ら庄内に出兵した。
これを知った大宝寺義興は田川郡の松根・黒川付近(櫛引町)で迎撃したが、背後を東禅寺氏に突かれ大敗し、義興は自害した。ついに義光の庄内支配が現実のものとなった。
義光は尾浦城に目付役として重臣中山玄蕃光直をいれ、庄内三郡の支配は東禅寺筑前に任せた。

しかし庄内情勢はその後劇的な展開を見せる。この時期関東以西を統一した豊臣秀吉は、義光の庄内攻略を知り、奥羽惣無事令を発した。
越後の上杉氏は景勝の代になり、既に秀吉に服属している。義光が攻撃した大宝寺義興の養子義勝は本庄繁長の二男であり、その繁長は上杉家の家臣である。義光の行動は秀吉への反抗とも取れる。
天正16年(1588年)になると本庄繁長は、庄内に攻め込んで来た。義光も防戦に努め、十五里ヶ原(鶴岡市)で本庄軍を迎撃するが、背後からも攻め込まれて大敗、東禅寺筑前も戦死してしまう。
続いて義光の庄内支配の本拠尾浦城や大宝寺城も落城し、義光は手に入れたばかりの庄内を失ってしまった。

義光は秀吉に本庄繁長こそ奥羽惣無事令に違反していると訴え、徳川家康の口添えもあって一時は有利に展開するが、結果的に破れて庄内地方は上杉領になってしまう。
大宝寺義勝は支配権を認められるが、太閤検地後に発生した一揆の責めを追わされ義勝は支配権を取り上げられ大和に流される。
そののち赦されて本庄姓に復帰、父繁長の跡を継いで本庄家の当主となって上杉家に仕え、大宝寺氏は消滅した。

参考文献:陸奥・出羽 斯波・最上一族(新人物往来社)、最上義光(PHP文庫)、奥羽の驍将(人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

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